1章:アルキメデス

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 先日のゼミでのできごとも狂気じみていた。譲がゼミ室に入ると作業机の上に大量の計算ドリルが置かれていた。小学生が宿題で行うようなものだ。磐田がその計算ドリルを次々と一心不乱に解いている。譲もどういう意味があるのか気にはなったが、変にからんでややこしくなるのも嫌なので、本を出して読書を始めた。  そこに由香が遅れて入ってきた。入ってくるなり目の前の計算ドリルを見て、由香は「何これ? 計算ドリル?」と一冊持ち上げ、中身をパラパラとめくる。問題の内容から小学校三、四年生ぐらいの計算だ。  由香がパラパラと中身を覗いていたドリルを磐田は視線を手元に残したままひったくるように取り上げる。磐田は無言のまま筆算で書かれた二けたの割り算の問題をすごいスピードで解いていく。 「磐田先生、何をしているんですか?」  こらえきれず由香が尋ねる。相変わらず磐田の視線は動かず、ペンは次々と計算を解いていくがどこかその質問を待っていたかのようにも見える。 「見てわからないのか? 割り算をしている」 「割り算?」 「ああ、それもただの割り算じゃない。余りの出る割り算だ。分数の概念を習う前にはやっていただろ」  確かに分数で物事を考えるようになってからいつの間にか忘れていたが、小学校の計算では割り切れない割り算は商と余りの形で答えを表していた。 「でも、何で余りのある割り算をしているんですか?」  譲が浮かべたのと同じ質問を由香が磐田にぶつける。磐田はやれやれといった感じでゆっくりと説明を始める。それがまた譲には癇に障る。 「割り切れない割り算を行いながら、人生はなぜ割り切れないことばかりなのかを考えていたんだ。人生の真理というのは意外とこういうところに隠れているのかもしれない」  人生の真理を探究するのにわざわざ計算ドリルを行う必要はないと思うが、磐田については一事が万事この様子、「アルキメデス」のあだ名もそれを揶揄するものだ。このゼミに入って二ヶ月が経過していたが、譲は未だに磐田の性格をつかむことができていなかった。  二乗するとマイナスになる虚数の話がまだ磐田と由香の間で続いている。二人の会話を完全にシャットアウトして譲は本を読んでいた。周りの雑音をシャットアウトして読書する能力を身につけたことがこの二カ月の一番の成長かもしれない。  やりたいテーマはまだ何も決まっていないので、この二カ月は哲学、倫理学に関する本を手あたり次第読んでいる。譲はその中で何かテーマになりそうな物が見つかればいいと思っていたが今のところそこまで心惹かれる題材がない。  卒論を書きだすにはまだまだ時間があるが今年中にはテーマを決めたいところだ。四回生になると二カ月に一回、哲倫ゼミが集まっての卒論の中間発表会がある。三回生も来年のためにオブザーバーとして参加することになっている。今日も午後からがちょうどその日だ。哲倫ゼミではその発表会の後、懇親会という名の合同飲み会が開かれる。  四回生のいない磐田ゼミでもこの会のおかげで先輩や同級生とのつながりを持つことができる。譲や由香も哲倫ゼミ全体のオリエンテーションで四回生と顏を合わせたことはあるが飲み会は初めてだ。  昼からの中間発表会に向けて早めに昼食を取ろうと譲が席を立ったところで、ドアがノックされる。近くに立っていた譲が自然とドアを開けた。
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