1章:アルキメデス

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「磐田先生はいるかい?」  ドアの外にいたのは准教授の倉内だった。  譲が中にいることを伝えると「失礼するよ」と言って、倉内は研究室内に歩みを進める。横を通り過ぎるとき独特な整髪剤の匂いがした。磐田ほどではないがこの倉内も譲は好きにはなれなかった。  磐田より少し年上なので四十代前半ぐらいだろうか? ジャケットの中はいつも少し派手目な色のシャツを着て、グリスで髪の毛をオールバックにしている。人当たりが悪いわけではないが長いものには巻かれろといった性格が透けて見え、教授の松本の顔色をうかがっている印象が強い。  由香と話を続けている磐田の前までやってくると「磐田先生」と声をかけた。 「昨日までに発表会の後の懇親会の参加人数を伝えてくれるよう頼んでいたはずだが?」  口調は丁寧だが倉内が磐田のことをよく思っていないことは見て取れる。 「一応、三人で店には連絡しているが当然君も来られるんだろうね?」  磐田は少し考え込んだそぶりを見せるが倉内とは視線を合わせない。落としていた視線を目の前の由香の方に移すとゆっくりと口を開く。 「参加はこの二人だ。悪いけど一人キャンセルしておいてくれ」 「おいおい、君は参加しないのかい?」 「うちは四回生がいないんだ十分だろ」  磐田の態度も態度だが倉内もそこにしつこくからんでいく。 「今回は三回生の顔合わせも兼ねているんだ。他のゼミの生徒も君と会うことを楽しみしているよ。たまには参加したらどうなんだ」 「……本当に楽しみならいつでもうちのゼミに遊びに来るように伝えておいてくれ。数学の問題を用意して歓迎するよ」  磐田の言葉に倉内はやれやれといったジェスチャーを見せて、「発表会には遅れず来てくれよ」と声をかけて踵を返した。ドアから出るとき譲に向かって小声で「君たちも大変だな」と声をかける。譲は軽く会釈して黙って見送るしかなかった。  三人の四回生の発表は譲からみると見事なものだった。その中でも松本ゼミの荒川綾菜のカントの「純粋理性批判」に関する松本教授とのやりとりは譲も含めて他の三回生も内容のほとんどが理解できなかった。  発表の間の休憩時に松本ゼミの三回生南朋子から聞いた情報によると荒川綾菜は松本も認める熱心さで、普段からかなり深い議論を松本と交わしているらしい。高校でも生徒会長をしていたという荒川を南はかなり慕っている様子だ。  一方、もう一人の松本ゼミの四回生久保田則明についてはあまりよく思っていないらしい。確かに久保田については人によって評価が分かれる。久保田の軽いノリを由香などは人当たりがいいと捉えていたが、この南は軽率で調子がいいとみているようだった。  実際、いち早く就職活動を終え、卒論もそれなりにこなす世渡りの上手さのようなものは雰囲気として出ていた。結局はこういった人間が得をするのだろう。  一方、倉内ゼミ唯一の四回生は安岡拓真といった。久保田と対照的に朴訥なイメージの安岡は、言葉数は少なかったが好感が持てる。ゼミ室が同じ棟の並びにあるので哲倫ゼミの四回生三人の顔ぐらいは知っていたが、こうして話を聞くのは譲も初めてだった。  発表会の間は四回生のいない磐田ゼミはアウェー感もあって譲も緊張していたが、懇親会が始まって、各ゼミのメンバーが入り混じると多少その緊張もほぐれてきた。三回生は授業で一緒になることもあるので今までも話したことがある。
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