先輩と私と

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田中くんはあれから何度も何度もアプローチをして、三好さんと付き合った。 最初は片思いから始まった恋愛でも、もともと相性がよかったのだろう。 そうして最近、結婚したらしい。 私は先輩とまだ付き合っている。 そんなある時、先輩が私に言った。 「サクラちゃん。君と家族になりたい」 私たちも、もうそろそろいい頃合いかもしれない。 私はそう思ってプロポーズを受けた。 「はい。私もです」 結婚したからといってほとんど変わらないだらう。 先輩は誠実で優しいし、私の両親も気に入るはずだ。 唯一大変なことがあるとすれば、義理の両親に気を遣うことくらいだ。 そう思っていた。 しかしどういうわけか、結婚してからというもの、調子がよくなかった。 仕事も普通通りこなせるし、病気にもなっていない。 けれどなんだか毎日が曇り空のように気分が晴れず、身体が重りをつけたように重く感じる。 頭でどれだけ考えても、なぜかわからなかった。 そうでなくても、昔から私は自分に疎いのだ。 何を言われても、何をされても、あまり落ち込まない。 痛覚が他人より弱いのだと思う。 たとえるなら、刺されても痛みを感じず、流れている血を見てやっと刺されていることに気づくみたいに。 私は毎日、仕事が終わると、先輩より先に家に帰る。 残業を終えて帰ってくる先輩の晩ご飯を作らなくてはいけないからだ。 今日もそうで、猛スピードで帰宅して、台所に飛び込む。 料理本を見ながら約一時間。ようやく完成した。 先輩の嫌いなものは入れていない。 栄養価もばっちりだ。 ガチャ…… 玄関の扉が開く。先輩が帰ってきたのだ。 今日はクリームシチュー。 彼はよろこんでくれるだろうか。 リビングに入ってきたとき、開口一番、彼はにっこりと笑いながらこう言った。 「玄関の隅にホコリが溜まってる。今すぐ掃除してきて」 ーーー 結婚してからというもの、先輩は毎日毎日説教する。 「なんで君はそんなこともできないの?」 「なんで君はそんなに融通がきかないの?」 「なんで君は……」 私は応えた。 「わかりません」 先輩は困ったように笑う。 「罰として、今晩はベランダで寝るんだよ」 その顔を見ながら、私は、結婚する前に彼が言った言葉を思い出していた。 ーーサクラちゃん、家族になるってどういうことだと思う? 家族になる。 どういうことだろう。 婚姻届を提出することだろうか。 ーー少しずつ相手のいやな一面を知っていくことだよ。 ーーいやなところ。 ーー結婚したら、僕は君のいやな一面をどんどん知る。たとえばそうだな。今とは真逆の、感情的で、欲深くて、短絡的な、サクラちゃんとか。 ーー……。 ーーそして申し訳ないけど、君もきっと僕のいやな一面を知ることになる。 先輩は私が好きで、私は田中くんが好きで、田中くんは三好さんが好きで、三好さんは先輩が好き。 それが自然の摂理だった。私が先輩を意識的に好きになったことで、かわってしまった。 「ほら早く。今すぐに行くんだ」 「はい」 「返事だけじゃダメだ。ほらさっさと動いて。君には感情がないはずだろう?」 「はい」 返事はするのに身体は動かない。 ベランダに行かなきゃいけないのに。 どうしてかわからなかった。 「どうして言うことが聞けない!」 先輩は私の腕を両手で掴んだ。 それはもの凄い力だった。 ふと、ふしぎな感覚が自分を襲う。 心臓がバクバクと急ぎだし、唇は小刻みに震えて、目の奥にじわりと何かが押し寄せてきた。 田中くん。 恐怖に震えながら、私は全身で、本当に好きな男の名前を叫んだ。
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