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「御屋形様。御屋形様……御屋形様!」
傍らから呼びかける声で、武田勝頼は我に返った。薄暗い森の中で、僅かな家臣に囲まれている。滅びゆく武田家の中で、最期を共にするべく付いてきた者たちだ。
「儂は……一体?」
そこで初めて気がついた。腰の刀を抜いている。その刃先には、べっとりと赤い血が付いている。
「儂は誰かを……斬ったのか?」
勝頼は震える声で問いかけた。あれはステゾウの罠だったのか。奴にたぶらかされて誰か家臣を殺したと言うのか。
だが、周囲の者は訝しげに首を振った。よく見れば、ステゾウの陣に行く以前と比べて誰も欠けていない。
「御屋形様……それは誰の血でございますか?」
一人が困惑しながら問いかける。勝頼はそれには答えず、刀を鞘へと戻した。
余計なことに気を取られてはいけない。武田勝頼は『甲斐の虎』に強さを認められた男。それを死に様で示さなくてはならない。
鍔にかけた手が震えていた。抑えようとしても、どうにもできなかった。信じられないものを見るように身をすくめた家臣たちへ、勝頼は笑いかける。
「案ずるな……武者震いじゃ」
父のように破顔できていたかは、わからなかった。
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