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その勝頼もさすがに驚き、片眉を上げた。眼前に一人の男が音もなく現れていたのである。武を極めた彼に何の気配も悟らせないとは、只の人ではない。
いや、人ですらないのかもしれない。長く伸ばした白髪を後ろでまとめた男は、勝頼の足元で畏まったように頭を下げていた。顔に刻まれた皺と丸まった背中は、彼が相当な齢を重ねていることを物語っていた。
「面を上げよ」と勝頼が言い出さないうちに、男は勝手に顔を上げる。一国の主に対して到底許される振る舞いではない。
だが、勝頼はその無礼に眼をつぶった。他に気になることがあったからだ。
「貴様……三ツ者のステゾウか?」
「お久しゅうこざいます、若様。いや、今は御屋形様とお呼びした方がよろしかったですかな?」
ところどころ欠けた歯でにっと笑う。その笑みに勝頼が覚えるのは親しさや、懐かしさではない。得体の知れなさと不快さだ。
そもそも彼とステゾウは、親しげに言葉を交わし合うような仲ではなかった。
三ツ者。父の使っていた間者を指す名だ。
武田信玄という武将の強さは、その勇猛さや戦の上手さだけでは語り尽くせない。
そのもう一つの強さは、緻密にして周到な調略だ。群雄ひしめく乱世の中で、彼は敵と味方を幾度となく入れ替えた。今川、織田、北条……果ては幾度となく激戦を繰り広げた宿敵の上杉であろうとも、必要であれば手を結んだ。
また、一度滅ぼすと決めた相手に対しては、直接的な戦を始める前に徹底的な切り崩しを仕掛けた。重責を担う家臣や周辺を固める諸将を手中に収めた上で、初めて火の如き侵略を行う。彼はそのようにして一代で版図を拡大させてきたのだ。
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