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それらの調略を行う上で欠かすことのできない存在が三ツ者だ。
身分を偽って諸国へと散り、刻々と変わる情勢を信玄の耳に入れる。或いは敵国に疑心と混乱をもたらすような噂をばら撒く。さらには、中枢にいる人物を寝返らせることで国を内側から瓦解させる。
彼らの働きがあってこそ、信玄は常に最善手を打つことができたのである。
ステゾウはその中でも信玄が特に信を置いていた者の1人だ。
勝頼自身は数度ほどしかその姿を見たことはないが、彼の注進を何よりも優先していたことを考えれば、その重要さは推し量ることができた。
噂では他国ではなく、家中に身を潜め反乱の芽を潰していたのだと言われている。
勝頼もそれ以上のことはあまり知らない。父から当主を受け継ぐ際に、全て暇を出したからだ。
この戦国の世は、戦の強さばかりで成り立っているわけではない。その裏には虚々実々の化かし合いがある。そんなことは勝頼とてわかっている。
だが、彼は得体の知らない連中にこそこそ諸国を嗅ぎ回らせるのではなく、自らの才知でそれを成したかった。
病の床に臥す父にそれを伝えた。「生意気を言うな!」と叱られるかと思ったが、そうはならなかった。武田信玄は、愉快そうに破顔したのだ。
「やってみよ。貴様は強い」
その言葉が勝頼の拠り所となっていた。だから、軍略も政務も己の才と力で推し進めた。それが及ばなかったことは残念だが、悔いている場合ではない。 散り際にこそ武田の家名が懸かっている。ここで父の名に泥を塗るわけにはいかなかった。
「久しいな。どうしておった」
敗軍の将らしからぬ鷹揚さで勝頼は問いかけた。この男がこの期に及んで何をするつもりかはわからない。よもや、己に暇を出した主君が家を滅ぼさんとしていることを嗤いに来たのかもしれない。そうであるならば、絶対に乗るつもりはなかった。
「へぇ。お役目を解かれてからは、一百姓として小さな畑を耕しておりました。ただ、生憎妻も子もおりませんでな。今ではぺんぺん草が生えているばかりにございます」
まるで、もう死んでしまったかのようなことを言う。やはりこの男、既に人ではなくなったということだろうか。
「その貴様が、何故このような場所へ儂を呼び出した」
それもこのような不可思議な術まで使って……そう付け加えたくなる思いを勝頼は堪えた。一国の主人が取り乱した姿を見せてはいけない。
「長篠以降、陰っていく武田の有様にはわしも胸を痛めておりました。いよいよ滅亡かというここに至って、往年の御屋形様のことなど誰かと語り合いたく、お招きした次第にございます。若様」
あまりの言い草に、勝頼は顔を真っ赤にして立ち上がる。ステゾウは何を勘違いしたのか、諭すように言った。
「お焦りめされるな。この陣は時より切り離されたる摩訶不思議な場所。何をどれだけ語り明かそうとも、今森の中を駆け巡られている若様に障りはございませぬ。わしがこの陣を払わぬ限り、若様の魂はここに留まり続けまするからな」
つまり、この男をここで斬ってしまうと元の身体に戻れないかもしれないということだ。勝頼は己を無理矢理押さえつけ、再び腰を下ろした。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、ステゾウは身を乗り出して問いかける。
「若様にとって御屋形様……武田信玄公とはどのようなお方でございましたか?」
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