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気がつくと、幕を張り巡らせた陣の奥に座っていた。白い幕のあちこちには、大きな割菱紋が描かれている。言わずと知れた甲斐の名門、武田家の家紋である。風に靡く旗や両脇に立つ篝火の数がその規模や威容を物語っていたが、不思議なことに人の気配は見られなかった。
男は訝しげに眉を顰める。ここが彼に似つかわしくない場所……というわけではない。寧ろ彼にこそ相応しい場所と言うべきであろう。男の名は武田勝頼。
甲斐・信濃・駿河の三国を統べる戦国の覇者、武田信玄の血を継ぐ者にして、現在の武田家を率いる頭領である。『陣の奥』とは、数多の戦を指揮してきた勝頼にとって最も馴染み深い場所であった。
わざわざ『であった』と記したのには訳がある。長篠の合戦で大敗を喫して以来、武田家の力は急速に弱まった。
代わりに勢力を伸ばした織田・徳川の猛攻に晒され『甲斐の虎』の異名で畏れられた父 信玄の権勢は見る影もない。今やその命運は風前の灯火、残った手勢で逃げ惑うところまで追い詰められていた。
それ故陣を張る余裕などあるはずもない。そもそも、勝頼はつい先ほどまで僅かな手勢と山越えをしていたはずだ。
夢でも見ているのか、それとも狐狸妖怪のいたずらであろうか。何であろうと構わない。自らの命すら惜しまずここまで戦ってきた。力及ばず追い詰められたが、家臣たちもろとも華々しく散る覚悟は出来ている。今更、怪力乱神の類に狼狽える勝頼ではなかった。
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