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人生には時折、突如として自分を救ってくれる何かが現れる。
もちろん『それ』と出会うまでは、そんな綺麗事を信じてはいなかった。綺麗事なんて物語の中にしかない。誰かが作った綺麗事を綺麗だと思うのは、現実の世界に存在しないからだ。
ペガサスに憧れを抱くのは、ペガサスが存在しないから。
けれど僕はペガサスが存在しているのだと、本気でそう思ってしまった。
「……綺麗だ」
檸檬を眺めただけで唾液が溢れてくるように、ただ絵を見ただけなのに涙が溢れる。
流れる涙にも気づかず僕は呟いていた。
空っぽだった自分の人生に、見たこともない宝石を放り込まれたような気分である。
誰からも期待されず、何も成していないことに嫌気がさして、上着のポケットに残っていた小銭で入った美術館。そこに飾られていた一枚の絵に、視線どころか何もかもを釘付けにされたのだ。
「黒を駆ける白」
僕はその絵につけられた題名を読み上げる。
泣きながら絵の題名を読んでいる僕は、いかにも奇妙な男だろう。だが大丈夫だ。閉館時間である十九時までそれほど時間はない。
周囲に他の客はいなかった。
僕が涙を流していようが、それを目撃する人がいなければ何も思われない。そう考えると、絵も同じだ。誰も見なければ意味を持たない。
僕がこの絵を見たことで、そこに何かが生まれた。この涙は副産物にすぎない。
真っ黒な夜空を駆ける、美しいペガサス。
絵と呼ぶのも憚られるが、この絵が僕を救ってくれた。
「深い黒と重厚な白……本当に生きているみたいだ」
ペガサスの生命力が発生させた引力が、僕の心を離さない。生きていても死んでいても同じようなものだ、なんて思っていた気持ちはどこかに消え去っていった。
夜空の黒が光と共に吸い込んだのかもしれない。
僕が持っている言葉では表現しようがないが、生きていたいと思ってしまったのである。
勝手に救われた気になっていると、突然右隣から声が聞こえた。
「どうかされましたか?」
しゃがれた男性の声。どこか染み入るような深い声だ。
僕が咄嗟に振り向くと、灰色のスーツを着込んだ初老の男性が顔を覗き込んでいる。
勢いよく目を擦り、水分を飛ばしてから首を横に振った。
「な、なんでもないです。ただ、いい絵だなと思って」
「そうですか、それは良かった。あ、申し遅れました。私、この美術館で館長をしております、神田です」
神田と名乗った男は、自分のネクタイを片手で整える。
落ち着いた大人で、立場に見劣りしない風格があった。
僕が「館長さんですか」と言葉を返すと、神田は優しく頷いた。
「ええ、もうすぐ閉館時間ですから、こうして見回りに。しかし、この絵を褒めてくださる方がいるとは。くすぐったくなりますな」
どうして神田が照れくさそうにするのか。そこで僕は悟る。
「もしかして、この絵は館長さんが?」
「恥ずかしながら、私の作品です。趣味程度だったのですが、こうして飾らせていただいております」
「これが趣味程度だなんて。正直、僕に絵の良し悪しなんてわかりませんけど、この絵から目が離せなくなりました」
僕が感想を述べると、神田は気を良くしたのかペガサスに近づき、輪郭を視線でなぞった。
「私が語るのも烏滸がましいですが、絵とは不思議なものでしょう。視覚以外に情報がないからこそ、感情に直接訴えかけてくる。描く側も技術が全てではないんですよ。上手く描ければいいとういうものでもないんです。私よりも上手く描ける人などいくらでもいますから」
確かにそうかもしれない。
僕には絵の技術などわからないが、上手というだけでここまで心惹かれることはないだろう。
それ以上の何かが、この絵にはあった。
「じゃあ、何が絵の価値を決めるんですか?」
「それは人によりますな。画商が決めた値段、画家の名前、額縁が絵を決めるなんて言う人もいます。人の数だけ、絵の価値基準があると言ってもいいでしょう」
神田は初対面であるということを感じさせない穏やかな口調で話す。
僕はそんな神田に言葉を引き出されるかのように、自然と会話を続けていた。
「それじゃあ、館長さんの考える絵の良さってなんですか?」
「私ですか? そうですね、私にとって絵とは黒と白……です」
「黒と白?」
「ええ、何もかもを飲み込みそうなほどの黒、全てを照らすような白。この二つが揃っていれば人の心を掴む。私はそう考えています」
神田の言葉は僕をハッとさせる。
僕の中で言語化できなかったものを言葉にされ、頭を殴られたみたいだった。
そうだ。僕はこの黒と白に惹かれたんだ。
「なんとなく……わかります。本当に綺麗な黒と白ですね」
「烏滸がましいついでに語らせてもらうなら、芸術とは己のこだわりに存在するものですよ。矜持を貫けば自ずと芸術性が産まれる。たかが二色の話ですが、私はどうしてもそれが表現したいんですよ。この歳になってようやく見つけたものですがね」
「……それは芸術じゃなくても、でしょうか?」
思わず僕は神田にそう問いかけていた。
初対面の他人に何を相談しているのだろう、と冷静になれば恥ずかしくなるような行為だ。
しかし、神田は笑うでも馬鹿にするでもなく、ゆっくり答える。
「絵への質問よりも人生について問われる方が答えやすい。絵じゃなくても、です。小さなことに思えるようなものを大切に育てることで、何かが産まれる。そういうものですよ。あなたはまだお若いでしょう。自分が持っているものに気づいていないかもしれない。何かを判断するのには早すぎますよ」
「何もない、じゃなくて持っているものに気づいていない、か。そう考えると気が楽になりますね。ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは何も。それよりも、絵に興味が持てそうですか? それなら、もう少し踏み込んでみませんか。この館内に私のアトリエがあるんです」
神田はそう言って僕を誘う。
絵に興味がある、とまでは言えないが、僕の気持ちを変えてくれたのは絵だ。さらに話を聞けば、何か見つかるかもしれない。自分が持っていて気づいていないものに、気づけるかもしれない。
これは大きな勇気で踏み出す、小さな一歩だ。
「お邪魔してもいいんですか?」
「ええ、ぜひ。もう閉館ですからね。それにちょうど新しい絵を描いているところです。ただ閉館業務がありますので、一度事務室でお待ちいただけますか」
そのまま僕は神田に連れられ、美術館内の事務室に入る。
応接用のソファと神田のデスクがあるだけのありきたりな事務室だ。
神田は僕にお茶を淹れると、パソコンに向き合い何かを打ち込み始める。
「あの、仕事の邪魔になっていませんか?」
僕が問いかけると、神田は朗らかに笑って見せた。
「ははっ、毎日していることですから会話しながらでも問題ないですよ。気楽にしていてください」
「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと聞きたいんですけど、絵の良さを決めるのは黒と白って言っていたじゃないですか。それは絵の具の良し悪しで決まるってことなんでしょうか」
「私はそう思っていますよ。黒はともかく、白に関しては何色か混ぜて作るというわけにはいきませんからね。もちろん、絵の具を作る段階で様々なものを混ぜますから、こだわるポイントはいくつもありますよ」
「もしかして絵の具を自作しているんですか? 絵の具って作れるんだ」
素直に感心した。
僕にとって、いや多くの人にとって絵の具は買うものだろう。それを自作するのは相当なこだわりだ。
神田という男は相手の反応によって、饒舌になる癖があるのだろうか。彼は嬉しそうに頷く。
「絵の具は色を決める『顔料』と『のり』によって出来ています。植物の色や土なんかの色を利用することが多いですね。高価なものであれば、宝石を粉にしたものを使用することもあります」
「宝石を……」
「絵の具の値段は本当に差が激しいですからね。こだわればキリがありませんよ」
僕はお茶を飲みながら、神田のこだわりに憧れすら覚える。
それだけ貫ける何かが、羨ましくて仕方ない。
「神田さんの黒や白があれほど綺麗なのは、宝石を使っているからなんですか?」
「いえ、宝石から生まれる黒や白もあるんでしょうけど、一般的には煤を集めた黒が多いでしょう。白はそうですね、ボーンホワイトと呼ばれるものがありますね。動物の骨を灰になるまで燃やしたものを使用する白です」
そう語る神田は恍惚に支配されているかのような表情を浮かべていた。黒と白を信仰しているとすら感じる。
その言葉まで僕はなんとなくだが理解できていた。
しかし、突如として彼の言葉が頭に入らなくなった。何も理解できない。
いや、違う。何も考えられないのだ。
「あれ?」
気づけば僕の体は、地面との垂直を保てなくなっていた。
体から力が抜け、ソファに倒れ込む。
それでも神田は言葉を続けていた。ただ耳に飛び込み、消えていく言葉である。
「ボーンホワイトと同じように、骨から黒を作ることもできるんですよ。骨を焼く際に酸素を遮断する。そうすることで炭化し、それはそれは深い黒が生まれ、より一層白を引き立たせるんです。ああ、新しい絵の完成が今から待ち遠しくてたまりません」
何を言っているんだ、この男は。
僕が消えゆく意識を必死に捉えようとしているのに、ソファに倒れているのに、どうして言葉を止めないんだ。
どうしてデスクの下から、ナイフを取り出したんだ。
どうして僕をそんな目で見るんだ。空っぽで何者でもない僕に明確な価値を見出した初めての視線が、どうしてそんなにも輝かしく恐ろしいものなのか、うまく考えられない。
ゆっくり近づいてくる神田は、嬉しそうに口角を上げる。子どもがプレゼントの包装を開けるかのように、純粋で深い瞳をしていた。
「あなたは黒にしましょうか。深い深い黒」
ブラックアウト。先ほど感動した黒が安っぽく思えるほどの暗闇が、目の前に産まれる。
「どこまでも気にしていましたね、自分の価値を。安心してください。もう大丈夫ですよ」
ようやくわかった。これが現実世界に存在する綺麗事なんだ。
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