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とっくに日は傾いて、窓を通り抜けたオレンジの光線も音楽室の壁に空いた小さな穴に入りこんで減衰していくのに、先生はまだ明かりを点けようとしない。それはわたしの歌が下手すぎるからで、わたしが今度の実技テストが不安すぎて、暇を見つけてもらったからで、先生が終わりの見えないわたしの苦戦に一生懸命付き合ってくれるからで、だからわたしはプリントの音楽記号が見えなくなるまで電気を点けようなどと言い出すつもりはなかった。
[アウトテイク1]
辛うじて彼女がテスト範囲を歌えるようになると、先生は満足してプリントを畳んで、きつね色の大きな手で鍵盤の蓋をおろす。指の均等に生え揃った大きな手。きっと先生の恋人になる人は、デートのたびに手指を痛めるのだろう。
「先生」
「ん?」
[アウトテイク2]
「ちょっと相談したいことがあるんですが、ぜんぜん関係ない話なんですけど、いいですか?」
「ん? いいよ」
先生はちょっと意外そうに眉をぴくりと動かして言う。
「友だちからの相談なんですけど、なんて答えたらいいのかわからなくて。あの、恋愛の相談で」
彼女がはにかみながら言い終えると、先生は朗らかにわらって、いいよ全然、と続きを促す。緊張していたわたしの声帯が再び緩んで楽になる。
「その子、好きな人がいるんですけど、あの、わりと年上で、はっきり言って眼中にないんですね、彼女は。彼女もそれはわかっていて、それでも振り向いてほしいみたいで」
先生は何だか面白そうに、ほうとかへえとか相づちを打っていて気楽そうだ。
「今度の水曜、バレンタインじゃないですか。その子、その日に告白するつもりみたいで。そこでわたしに相談してきたんです。意中の人を振り向かせるのにはどんな言葉で気持ちを伝えたらいいのか、みたいな」
「なるほど。それでいい答えが浮かばなかったのかな」
「そうです。なんて言ったらいいのかわからなくて」
先生は心なしかにやつきながら、少しの間考えた。
「まあ、そうだね。俺は年の離れた人を好きになったこともそういう好意を向けられたこともないからわからないけど、そうだね、そのまま見向きもされずにこう、一方的な状況を続けるのは、うーんあんまりよくないんじゃないかな」
先生は意味もなくプリントをひっくり返す。彼女はきもち大げさに相づちを打つ。もっと話してほしいとわたしはねがう。もっと本音で。いつものように。
「その子が正直に気持ちをぶつけようとしてるのは、まず正しいと」
「うーん、俺はその子に好きですって伝えてほしいかな。ちゃんと言った方がいいと思う。……で、どんな言葉で伝えたらいいのか、か」
先生がひとしきり悩んでいるうちに日は沈みかけ、先生の顔色も暗がりに溶け込んでわからなくなってくる。誰かと誰かの笑い声がする。どこかでホイッスルが鳴って誰かが走るのをやめる。先生の優しい声だけが同じ暗がりの中から聞こえてくる。
[アウトテイク3]
誰かがボールを強く蹴る音がする。藍色の地平線がゆらゆらもえている。
先生はふと鍵盤の蓋を開け、黒く艶めく台座に腰を下ろす。やさしげな半眼で、羽毛の舞うように鍵盤に手を置く。それから先生は静かな声で長い話をはじめるかわりに、最初の二音をそっと鳴らした。水の中に注ぐ日の光のように、温かく柔らかく美しいメロディが音楽室の暗がりに冷たく張られた弦がふるえて響いていく。光が和らぐと、またはじめの二音が聞こえてくる。実はね、と何かわたしに打ち明け話をはじめるように。たゆたうようなこのメロディをわたしは知っている。シューマンのトロイメライだ。
音楽室は暗く、きっと先生も自分の手元がよく見えないはずだ。すべては先生のからだが覚えているのだろう。ミスタップの多い演奏だった。聴き慣れないわたしにもわかるくらいだから、先生もだましだまし弾いているに違いない。わたしはただ、先生の手指や表情を全身で見つめていた。
しばらくして先生の演奏ははたと止まった。忘れた、とだけ言って先生は鍵盤の蓋を閉じる。先生の鳴らした音がまだピアノの木材の微細な空洞の中で反響している気がした。
「俺もピアニストになりたくてさ、この曲を弾くのも夢だったんだよね。結局それはまるでかなわなかったんだけど、でも、思うところはある」
ピアノの縁に目を落として、指でそっとなぞりながら、先生は呟く。
「演奏の正確さとか、評価されるされないとか、上手い下手はほんとうはそんなに大事じゃない、と思うんだよね。音楽を演奏しようとか、ピアノを弾こうとか、そうじゃなくて、人に届けたくて弾くのがピアノなんじゃないかなって。嬉しそうに笑う人と嬉しいけどどんな顔をしたらいいかわからない人がいる。才能っていうのはそういうものだと思うんだよね。不可能を可能にする力じゃなくて、行きたいところがわかる力。俺にはそういうセンスがなかった」
わたしは先生の無表情な横顔をずっと見つめてうなずきつづけた。トロイメライを聴くように、早口気味の言葉から何かを汲み取ろうとしていた。先生は、はっとしたようにわたしの方を向いて笑う。
「俺には説教のセンスもないみたいね。告白の話だったね。多分、一番大事なのは今ある力と心を尽くすことで、よくないのは正解を探すことだと思う。まあその、つまり、がんばってこいよ、ってね」
「……ありがとうございます。伝えてみます」
[アウトテイク4]
先生は、ちょっと暗いな、と言って明かりを点ける。壁面のスイッチを押そうとして背中を見せる先生の耳は赤らんでいる。よくあることだった。先生は先生に向いているけれど向いていない。
[アウトテイク5]
「すいません、そろそろ帰らないといけないので」
「ああ、塾?」
「はい」
「おーけー。俺も仕事だ。行こうか」
そう言いながら先生はプリントとペンケースを拾い上げて出口へ向かう。わたしも後に続いて明かりを消す。
[アウトテイク6]
「さようなら」
「はいさようなら」
1フロア降りて別れる。彼女は教室へカバンを取りに行く。暗いままの教室で彼女はカバンを肩にかける。学生カバンの紺色が窓から空に溶け出す。カバンの縁をぎゅっと握るわたしの手は、ふるえている。
答えはもう出てしまっていた。先生が打ち明けてくれたことは、伝えようとしてくれたことは、わたしの知っている先生そのものだったと思う。だからわたしはそれに応えたいと思う。どんなに声がふるえても、わたしはちゃんと伝えられる。それでもからだの震えて仕方がないのは、わたしの胸のふるえてしかたがないのがそもそも不正解だからなのだろうか。
[アウトテイク1]
「どう? 自信はついた?」
「……ハイ、もう大丈夫です」
[アウトテイク2]
先生の顔が少しだけひきつったように見えたが、先生と個人的に話せる機会は多くないので、わたしは少しだけ身勝手になることにした。彼女は「少しだけ」身勝手になることにした。
[アウトテイク3]
「わかんないな。ぶっちゃけ、俺そんなに恋愛経験ないもん」
「……確かに」
「え?」
「確かに」
「ん、そう、見えてるの?」
[アウトテイク4]
「……大丈夫? 何というか、得るものはあった?」
ふと眉をひそめてわたしに顔を寄せて先生は尋ねた。
「ありましたよ。いつもありますから」
わたしがそう言うと、それならよかったと先生は微笑んだ。少し訝しんでいるようにも、わたしには思えた。
[アウトテイク5]
「まあでも、明日は精確さも大事だからね」
「んー……がんばります」
「うん。その、何とか形にしてくれれば、評定のことはまあ、気にしなくて大丈夫だと思う」
ちょっと小さな声で先生は言う。
「ありがとうございます」
「うん」
[アウトテイク6]
「ほんとにすごいよ。定期テストのたびに職員室で君が話題になるもの」
「まじですか?」
「マジマジ。先生たちもわくわくしてるんだよ」
「ええ……うーんなるほど」
彼女はうつむいて首の後ろに手をやる。
「え? プレッシャー?」
「いや、ちょっと……」
彼女はしきりに瞬きしはじめる。数字には出ていないが、ここ最近は運に助けられたところが実際多い。のどの詰まるのをわたしは感じた。
「胃が痛いっす」
先生は大げさにげらげら笑って、大丈夫だよ、とわたしの肩をはたく。何とかするつもりだから、わたしも笑ってみせる。
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