優しくて残酷な君へ

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僕は雪を見ると、心がキュッとなる。 真っ白な景色は、切ない記憶を呼び戻すから。 もう過ぎ去った時間なのに、今も僕の心を締め付ける。 僕は、野良猫だった母のもとに生まれた。 母は、僕達を空き家の軒下で産み育てていた。 そんなある日、夜になっても母は帰ってこなかった。 お腹の空いた僕達は母を呼び、鳴き続けた。 その声を聞いた通りすがりの猫が「お前達の母さんは、近くの道路で車に轢かれてた」と教えてくれた。 まだ幼かった僕達は、空腹をこらえながら、これからどう生きていくかを決めなければならなくなった、 1番上の姉が言った。 「母さんは死んだ。 幸い、私達は独り立ちの時期を迎えている。 これからは、何とか一人で生きていかなければならない。 母さんのやっていた事を真似してやっていこう」 そうだ。 僕達は、いずれ一人で生きていかなければならない。 僕達は、野良猫だから。 これから先は、当然誰からも助けてはもらえない。 その事を理解していたし、受け入れてもいた。 だけど正直なところ、母がいなくなったことは寂しくてたまらないし、心の中は不安でいっぱいだった。 この不安を消すためには経験を積むしかない。 次の日、僕達は離れ離れで生きていくことを決め、別れの挨拶をした。 僕は、東に向かって歩いてみることにした。 時々、すごい勢いで車が横を通り過ぎる。 母も、この車に殺られた。 気を付けなければ。 あー、お腹すいたな。 落ちている物があれば、とりあえず匂いを嗅いで、食べれるかどうか確認する。 なかなか、食べ物は見つからない。 そんな僕の目の前に、パンの欠片が転がってきた。 いい匂いがする。 少し離れたところから、少年が優しい笑顔で僕を見つめていた。 持っているパンをちぎって、また僕の前に投げた。 僕は、人間が怖い。 それは、母から 「人間は、とても恐ろしいもの」 そう教わったからだ。 絶対に近づいてはいけない。 だけど、お腹ペコペコの僕は耐えられず、そのパンにかじりついた。 必死に食べていたら、その少年が一歩近づいてきた。 僕は、急いで逃げた。 ブロック塀に隠れながら、その少年の様子をうかがった。 少年は、猫の鳴き声を模した声で僕を呼んだ。 僕は、じっと見るだけで近づくことはしなかった。 少年が立ち去るのを確認して、僕は残りのパンを食べた。 次の日も、少年は同じ場所にやってきた。 紙皿にミルクを入れて地面に置くと、僕が怖がらないように少し離れた。 それでも、僕は怖いからすぐには近づかない。 しばらく様子を見ていたが、少年は危険なことをしないようだから、ゆっくりミルクに近づいていった。 ミルクの匂いを嗅いでみる。 とても、いい匂いだ。 でも、油断は出来ない。 少年が、乱暴な事をしないか頻繁に確認する。 少年は、ニコニコしながら僕の様子を見守っている。 僕は、一口飲んでみる。 たまらなく美味しい。 落ち着け。 何かされるかもしれないから、用心するんだ。 自分に言い聞かせながら、少年を見る。 何もしてこないようだ。 僕は、無我夢中でミルクをなめ続けた。 紙皿が空っぽになって、ようやく我を取り戻した僕は、また少年を見た。 少年は階段に座り、優しい瞳で僕を見つめていた。 僕は少しだけ少年に心をゆるして、その場で毛繕いをして立ち去った。 その次の日も、その次の日も、少年は僕にエサを持ってきてくれた。 少年との距離も日に日に近づいて、手からエサをもらったり、頭を撫でてもらう事も増えていった。 その頃には、母の教えすら、もう忘れていた。 ある日、少年は僕を抱えて家に連れていった。 少年の家族も、僕に優しくしてくれた。 眠くなると僕専用の温かい寝床で寝て、お腹が空くと用意されている新鮮なエサを食べた。 何の不安もない、穏やかな毎日。 少年は、朝から晩まで僕を大切にしてくれた。 足元に近づくと抱っこしてくれた。 「ずっと一緒だよ。 ずっと大切にするね」 そう言って、頬にキスしてくれた。 少年の腕の中で、僕は世界一幸せな猫だと思った。 母さんは、どうして人間は恐ろしいなんて言ったのだろう。 そんな日々が続き、僕はいつしか自分が野良猫だった事も忘れかけていた。 僕は体も大きくなり、すっかり大人になった。 そんなある日の事だった。 離れて暮らしていた少年のお父さんが帰ってきた。 しかし帰ってきたのは、お父さんだけじゃなくて、小さな子犬も一緒だった。 「ずっと、子犬が飼いたいと言っていただろう。 驚かそうと思って、店で一番可愛い子犬を買ってきたよ!」 少年のお父さんは、ゲージに入った子犬を少年に手渡した。 血統書付きの毛並みのいい子犬だった。 少年は、目を輝かせ子犬を抱きしめた。 子犬は、人懐こい顔で少年の頬をペロペロとなめた。 僕は少し寂しくなり少年の足に擦り寄ってみたけど、少年は子犬に頬ずりするだけで僕のことを見もしなかった。 それからは、僕の存在はどんどん薄くなっていった。 少年の優しい瞳は子犬に向けられ、僕が甘えようとすると鬱陶しい顔でドアを閉められた。 一緒に遊ぼうとおもちゃをくわえていっても、少年はため息をついて暗い表情をするだけ。 僕は少年に頭を撫でて欲しくて、ずっと少年についてまわった。 でも少年は、まるで僕の姿が見えていないかのように冷めた顔のままで触れてくれなかった。 ある日、何だか腹がたって少年の足に爪を立ててしまった。 その日から少年は、まるでストーカーを見るような目で僕を見るようになった。 今までの優しい少年は消えた。 僕は、どうしたらいいのだろう。 僕が、何かしたのだろうか。 そんな毎日を過ごすうち、僕はお腹が空かなくなって、眠れなくなって、動きたいと思わなくなった。 窓から、外を見ると雪が降っていた。 きっと、外は寒いんだろうな。 でも、僕はここにいても寒くてたまらない。 寂しすぎて体が震えるんだ。 振り向くと、少年がいた。 少年は言った。 「ここにいても、お前は幸せじゃないよね。 僕も辛いんだ。 外の世界の方が、お前にとってはいいかもしれない」 そう言うと、僕を抱えてダンボール箱に入れた。 ダンボール箱の中には、たくさんのエサと大きな水入れ、毛布も入っていた。 少年は、僕を拾った場所までダンボール箱を運ぶと 「ごめんね」 と言って立ち去って行った。 心が壊れそうだった。 どうして、こんなに悲しいんだろう。 元々、僕は野良猫たったじゃないか。 もとに、戻っただけだ。 それだけ。 それだけのことさ。 だけど…。 だけど…。 温かさに触れてしまった僕は、もう以前の僕には戻れない。 君の温かい手の温もり、 君の優しい眼差し、 君の笑った声、 全てが僕の幸せだった。 きっと君にとっては、ただの通りすがりの野良猫だったんだよね。 ただの気まぐれで、大好きでいてくれただけ。 それだけの話し。 君は、悪人じゃない。 ごく普通の人間だっただけ。 そんな人間は、どこにでもいる。 だけど、僕は君を心から信じていた。 君だけは、他の人間と違うと思っていた。 悲しいほど、信じきっていたんだ。 でも、僕はよくある話しの主人公になってしまった。 母さんの言ったように、やっぱり人間は怖いものだったんだ…。 君に捨てられて何日過ぎたのだろう。 ダンボール箱から出られないまま、震えながら泣いていた。 でも今日、近所の猫達が僕に声をかけてくれたんだ。 「いつまで、そこにいるんだい。 一緒に散歩に行こうよ」 話しをしているうちに涙が止まって、お腹がグゥーと鳴った。 悲しみに溺れていた僕は、周りが見えなくなっていた。 見ようとしてなかったんだ。 いつか、傷が癒える日が来るだろうか。 君を忘れたいけど、きっと忘れられないだろう。 痛みを抱えたまま、僕は生きていく。 君のことを恨んではいないよ。 だけど、もう君に会いたくないし、 君と過ごした家の前を通りたくない。 心のカサブタは、いとも簡単に取れてしまうから。 あの時の苦しみが、あの時の雪の冷たさが、僕の心を覆ってしまうから。 唯一、僕から君に伝えるよ。 「別々の世界で生きるとしても、君も僕も幸せになりますように」 うっすら雪の積もった真っ白な光景を、僕は心に刻みつけた。
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