青石湖の神様は

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 恋がしたい──ニナハは村中の女にハタル(縁結び)を手渡されながら思った。  開祖が残した書物には、恋とは心震える想いだと書いてある。 (恋とは、感情とは何だろう)  村の人間はよく笑う。  いいことがあろうと、悪いことがあろうと、当然のように。  ここは神のおわす特別な村だから。    藍の空に満月の輝く日、青石山の麓の洞窟には鎮魂歌が響き渡る。  ニナハは父・ソユンの歌を隣で聞いて覚えている。  最奥に深く沈んだ湖が揺れ動いた。  青石の青をたっぷりと含んだ水が盛り上がり、神が姿を現す。  白い蛇のような体は硬い鱗で覆われ、背に小さな羽が生えている。 「今年の贄はどうだ?」 「実に美しい娘です。きっとお気に召すでしょう」  ソユンは丁寧にお辞儀をした。  神が喉を震わすと壁も水も小刻みに揺れる。 「待ち遠しい。今月の歌も見事だった。良い水の巡りを約束しよう」 「ありがたき幸せ」  洞窟から外に出ると、早速恵みの雨が降っていた。  ここ数日は晴天だったから、これでまた作物は良く育ち、森の動植物達も喜ぶだろう。 「ニナハ。贄の儀式が迫っている。お前ももう『男』だ。今回はお前が取り仕切るように」 「はい、父さん」    翌日、ニナハは早速贄の館に足を運んだ。  塵一つない床に、磨き抜かれた壁。  衣類も食事も実に質素だ。  贄であるタエは本当に美しかった。  艶やかな黒髪に、ぱっちりとした黒目。  目元を飾る長いまつ毛が瞬きの度に揺れる。  これから儀式まで彼女を清く保たねばならない。  ニナハは少しうわずった声で自己紹介をした。 「長の息子のニナハだ。贄に選ばれ、さぞ光栄に思っているだろう」  その瞬間、タエの顔が歪み、射抜くような視線がニナハの胸を貫いた。 「ふざけるなよ、ガキ。死ぬことの何が光栄なんだ」  外見にそぐわない言葉遣いに、ニナハは面食らった。  タエは鼻で笑って、挑むようにこちらを見る。 「あたしが贄になった理由はただ一つ、神を殺すためだ」      村に生まれて十二年……ニナハは初めての台詞を耳にして困惑していた。 「神を殺す? そんなこと許されるはずない!」 「誰の許しが必要なんだよ。あたしの行動はあたしが決める」  清らかとは程遠い言動に目眩がしそうだ。  このままでは贄の儀式は失敗間違いなしだ。 「この村は神の恩恵によって開祖の代から栄えてきた。皆それをありがたく思い、今後も続くよう協力しあっている。なぜお前は反抗的なのだ?」 「妹が犠牲になったのに、なんで従順でいなきゃいけないんだよ」 「あぁ、双子の妹が数年前に務めを果たしてたな。喜ばしいことだ」 「ふざけんなよ……家族を失った人間の気持ちを考えたことがあんのか」 「子供がいなくなると困るというのは分かる。働き手が減るからな。だから村全体で出産推奨してるだろ? 一人くらい平気じゃないか」  そう言った瞬間、タエの白く美しい手が、ニナハの股間を鷲掴みにした。  ニナハは声にならない悲鳴を上げる。 「お前もいずれ家庭を持つんだよ。その時に笑って我が子を差し出すのか! それがどういうことか……玉ついてんなら考えろ!」  思い切り突き飛ばされた後、ニナハはよろよろと館を去った。  心臓が激しく脈打っている。  誰かに怒鳴られたのも、股間を握られたのも初めてのことだ。  体全体がぶるぶる震えている。  ニナハはハッと顔を上げた。  一瞬よぎった考えを、かぶりを振って否定する。 (これは恋じゃない、恐怖だ……)    数日経っても、ニナハの心は静まらなかった。  タエの強い眼差しと、股間に残った感触が忘れられない。  今日はオモーニャ(子作り)の儀式の日だ。  日が暮れると、白い長襦袢に薄い外套だけを羽織った未婚の男女が、村はずれの平家に集合する。  女達は裸で座敷に横たわり、足を広げて整列する。  男達も服を脱ぎ、順に女に跨っていく。  長の息子であるニナハは、男達の最前列に位置していた。  誰かも分からない女の上に乗りながら、ニナハは考える。 (子ができたら、タエのように贄の館に閉じ込められるかもしれない)  何もない部屋で、一人座するタエの後ろ姿が過ぎる。  村人との交流も絶たれ、ただ死ぬ日だけを待つ……そんな人生になるかもしれない──。  その日はついに勃たなかった。    ニナハは早々に儀式を切り上げ外に出た。  冷たい夜風を浴びながら散歩をしていると、贄の館が視界に入る。  ふと、タエの顔を見たくなり、館の外側をぐるりと回った。  窓にはめられた格子の一つを、白い手が掴んでいる。  足音を消して近づくと、月明かりに照らされてタエの美しい玉肌が淡く輝いて見えた。 「カナ……」  宝石のような黒目から大粒の涙がこぼれ落ちた瞬間、ニナハは誰かに心臓を掴まれたように胸が苦しくなった。  気付かれる前にその場を去ったニナハは、胸を押さえながらひた走る。 (なぜタエを見ていると苦しくなるんだ)  足が悲鳴をあげるまで走ることをやめなかった。  翌日、朝一番にニハナは贄の館を訪れる。  タエは怪訝そうに眉を吊り上げた。 「こんな朝から何の用だ?」 「お前に協力する」 「なんだって?」  分かりやすく目をまん丸にするタエを見て、ニナハは胸がくすぐったくなる。  タエと会うと胸が騒ぐ理由を、ニナハは知ろうと決めたのだ。    それからニナハは毎日贄の館に通った。  別に神を殺したいわけではない。  ただ、神のことを含め村のことももっと調べてみたいと思ったのだ。  その過程で、タエのためになる情報もあるだろう。  タエもそれでいいと言ってくれた。 「カナとは双子だったからか、いつも繋がってる感覚があった。今もそれが残ってる」  タエはニナハの持ってきた砂糖菓子を頬張りながら話す。 「死んだのは間違いない。でも縁は生きてる。ただ、月に一度その縁が弱まるんだ」 「それって、いつなんだ?」 「満月の夜だ」  ニナハは目を見開いた。  その反応を見て、タエはニヤリと笑う。 「神と対話する日だろ? 絶対何か関係ある」 「鎮魂歌かもしれない。どんな歌か聞かせたいけど、できないんだよな。歌唱は長にしか許されてない」 「なら口笛吹けよ」 「口笛?」 「こう、ちょっと唇を窄めて息を押し出すんだ」  実際に口を軽く突き出し、タエが口笛を吹いてみせる。  澄んだ音色が広い室内に響き渡った。 「トウ、レン、ミュウ、ファス、リタ、ラオ、シグ……すごいな、全部の音階が表現できてる」 「かなり練習がいるけどな。贄の館にいるカナと、口笛を吹きあって遊んでたんだ。直接は会えなかったから」  タエが少し目を伏せると、長いまつ毛で目元に影ができた。    ニナハはその後、一生懸命口笛を練習した。  うまく吹けたら、タエが褒めてくれるかもしれないと思ったからだ。  同時に、実家の書庫にも足を運ぶようになる。  代々村長にしか語り継がれない開祖の教えは多い。  村に咲く植物や動物のこと、薬草の作り方、睡眠や麻痺など毒の作り方まで書かれている。  当然神についての記述もあった。  村を囲む切り立った山々の麓に昔から住んでいた存在。  開祖は歌を通じて初めて神と対話し、ねぐらを用意した。  その感謝の印として恩恵を受けた……など、当たり障りないことばかりだ。  ニナハは気分転換に外を歩くことにした。    村の外周を巡ると、トウとレンの花畑が見える。  音階の呼び方は花の名前から取られており、もう一ヶ月もすればミュウの蕾も見られるだろう。  神の恩恵は自然の法則を超越しており、村の天候は常に良好で農作物は豊作ばかりだ。  動物も花も沢山存在していて、この村だけでかなりの種類になる。 (そういえば……ラオの花が咲いてるのは見たことないな)  咲かないはずはない。  気候の異なる環境で育つはずの植物でも、神の力で一斉に開花するのだから。  それならばなぜ……と思案するうちに、父の話を思い出した。  ──開祖はラオの花がお嫌いだった。だから、村のはラオの花はない。  こんな個人の好みを数百年も語り継ぐだろうか。  何かが掴めそうで掴めない。  もどかしさのあまりウロウロ歩き続けていると、花畑に一人の村娘が立っていた。  腹が大きい。  横顔には他の村人と同じように微笑が浮かんでいる。  女は神のいる洞窟を見ているようだ。  そこで初めて思い出す。  去年贄に選ばれた三歳の娘の母親だ。 「どうかしたのか?」 「……忘れられないんです、あの子の笑顔が、なぜか。夫には喜ばしいことだったと諭されるし、私もそうだと思うんですけど」  笑いながら話していた女が振り返る。  その顔を見て、思わず後ずさった。  隠れていた反対側の顔は、酷く痙攣を起こしている。  おまけに、痣だらけで青紫色になっていた。 「娘のことを考えるうちに、顔の筋肉が言うことを聞かなくなって。変ですよね。次の子も生まれるし、これでいいはずなのに……」  引き攣った側の目から涙が伝う。 「嫌だ、まただわ。目から水が流れるだなんて、赤子以外聞いたことない。また夫に殴られてしまうわ」  半分だけ笑みを浮かべたまま、女は去っていった。  気付けば、ニナハはびっしょりと汗を掻いている。  おぼつかない足取りで贄の館まで辿り着くと、タエが驚いた表情を見せた。 「あんた、顔真っ青だよ! どうしたんだい?」  すぐに立ち上がり、ニナハを自分の膝の上に横たわらせる。  見上げたタエの顔は、とても心配そうだった。  後頭部からは柔らかな腿の感触が伝わってきて、ニナハな胸の奥から何かが込み上げる。  タエの腹に顔を埋め、腰に手を回してしがみついた。  タエは何も言わずに、ニナハの頭を撫でてやる。 (神はいなくてもいいのかもしれない)  ニナハは初めてその想いに駆られた。  落ち着くと体を起こし、タエと向き合って真っ直ぐに告げる。 「神を殺そう。思いついたことがある」      贄の儀式当日。  自分の試みにタエの命がかかっていると思うと、ニナハは落ち着かなかった。  何度も深呼吸を繰り返すうちに、ようやくソユンが食事の間に現れる。 「神の御心に感謝して──」  食前の挨拶を終え、皆静かに箸に手をつける。  ニナハは、好物の焼き魚を後回しにして汁物に手をつけた。  一口啜った瞬間、喉に焼けるような痛みが走る。 「ぐ、ほっ……!」  嘔吐の拍子に椀を倒し中身が溢れた。  揺れる視界の中で、赤緑色の葉の切れ端が飛び込んでくる──毒草だ。  喘ぎながら顔を上げると、ソユンと目が合う。  何の感情もこもらない瞳。  他の者も同様で、いつものように薄笑いを浮かべている。 「随分贄と親しくなったようだな。書庫にも出入りしていたと聞く。余計な知識を得たようだ。お前に任せるのは、まだ早かった」  ソユンは淡々と食事を続ける。  他の者も自分の食膳に向き直り、一口一口よく噛み締めている。  ニナハは抗議しようとしたが、ただ口が動くだけで音が出てこなかった。  愕然としていると、ソユンが箸を置く。 「贄は必ず神に捧げられねばならん。今日は、大人しく家にいるように。二週間もすれば声は元通りになる」  呼吸が浅くなっていく。  体が小刻みに揺れていた。  ソユンが席を立つ。  皆それに続き、室内にはニナハ一人が取り残された。  ニナハは自分で自分の体を強く抱きしめる。 (タエは数年前に死んだ妹を今も慕っているのに、あの人は息子に毒を飲ませるのか)  喉の痛みよりもずっと、胸が痛かった。    タエは両脇を大の男二人に挟まれ、無理矢理歩かされていた。  先ほどから何度もつまづいて足袋が破れ、足から血が出ている。 (どうしてニナハじゃないんだ?)  喉元まで出かかる疑問を、辛うじて押さえつけた。  ソユンが来ている以上、何らかの問題があったに違いない。  真っ青な岩穴の中をさらに進んでいくと前方に壁が現れた。  壁の下には竪穴が続いている。  左右の男達が離れるや否や背中に大きな衝撃が走り、タエは文字通り宙に浮く。 「務めを果たしてこい」  ソユンの言葉を最後に、タエは深い穴の底へと落ちていった。  長い落下時間の割に不思議と着地に痛みはない。  一本道を奥へ進むと、すぐに真っ青な湖が目に飛び込んできた。  背後から鎮魂歌が響き始め、神が姿を現す。  タエを目にすると、細長い目を三日月型に歪めた。 「美味そうだ。昨年のような無垢な幼子もいいが、やはりふくよかな方が食べ応えがある」 「この外道が!」  カッとなって懐のナイフを取り出すと、神は興味深げに顔を寄せる。 「なんと、今回の贄は随分と活きのいい」 「よくも妹を食ったな! 絶対に許さない!」  タエがナイフを振り抜くと、神は顔を引っ込め大笑いを始める。  洞窟全体が激しく揺れ、一瞬崩落するのではと思う。 「なんと! 俺の結界の余波から抜け出す者がいるとは! ハハハ! これは傑作だ!」 「結界……?」  タエが眉を寄せると、神は口を限界まで広げ、細長い舌を何度も出し入れする。 「俺を笑わせた褒美に、面白いことを教えてやろう。俺は神ではない」  一瞬、目の前が真っ暗になった気がした。    ニナハは痛む喉と気だるい体に鞭打って、何とか洞窟前まで来た。  書庫で覚えた眠り薬を作り、見張りの補佐官達を眠らせる。  重たい足を懸命に動かし進んでいくと、父の後ろ姿が見えてきた。  倒れた自分を見下ろす冷めた目つきが頭をよぎる。  ニナハは抱きつくようにしてソユンを背後から強く押した。 「ニナハ!」  ソユンの叫び声と共に落下すると、穴の奥に白い蛇のような体躯が見える。 (タエ!)  ソユンの制止も聞かず、ニナハは急いで駆け寄った。 「俺は神などではない」  ぴたりと、ニナハの動きが止まる。 「俺はただの化け蛇よ。長生き故強大な力を手にし、開祖が始末しようとした。だが、奴も俺を倒すことは叶わず、取引を申し出たのだ。毎年贄を捧げる代わりに、大人しくこの湖に暮らせと。俺はその条件を呑み、開祖と契りを交わした。それを勝手に人間どもが神と崇めてきたから、それらしく結界を張って恵みを与えてやったのよ」  ガン、と頭を殴られたような感覚だった。  タエの体も小刻みに震えている。 「嘘だろ? じゃあカナは、ただ化け物の空腹を満たすために殺された……?」 「あぁ、そういえば何年か前に同じ顔が送られてきたな。あれはお前とは別の意味で活きがよかったぞ? 最後まで目一杯泣き叫んで……そう、『タエ』と呼んでいたな」  その瞬間、タエがあらん限りの声量で雄叫びを上げたかと思うと、小さなナイフを片手に神──もとい化け蛇に向かって突進していった。  タエが腕を振り下ろした瞬間、肩から先が跡形もなく消える。  化け蛇を見上げると、口の端からだらりと垂れた細腕が見えた。 「ああぁ!」  再び叫び声を上げたタエは、傷口を抑えながら倒れ込む。 (やめろ!)  今度はニナハが化け蛇に向かって駆け出したが、見えない壁に弾かれ岩肌へと背中を打ち付けた。 「大人しくしておけ。契りがある以上、開祖の子孫を途絶えさせる訳にはいかん」  化け蛇が涎を滴らせながらタエの方へ近づく。  赤黒い舌が横たわるタエに伸びたところで、別の声が飛び込んできた。 「神じゃないなど……冗談でしょう?」  ソユンが顔面蒼白でやってくる。 「私が、我々が、どれだけあなたに尽くしてきたか。儀式の演出ですよね? どうかそうだと仰ってください」  こんな時でも、ソユンは口元に笑みを浮かべていた。  それでも、真実を耳にしたからか、目には不信と懇願がないまぜとなっている。  化け蛇はソユンを見たまましばしちろちろと舌を揺らしていたが、やがて口元を横に大きく広げた。 「開祖の子孫は、一人いれば良い」  言い終わるや否や、目にも止まらぬ早さでソユンの体を頭から腰まですっぽりと口内に入れる。  ソユンごと首を上方に戻すと、肉の裂ける音と骨の砕ける音がした。  耳をつん裂くような叫び声と共に、真っ赤な血の雨が降る。  化け蛇は一回噛むごとに一度口を開けて獲物の角度を変えると、再度牙を食い込ませた。  段々ソユンの声が弱まっていく。  ついに無反応になると、化け蛇はようやく体を一飲みした。  辺り一帯は大量に降り注いだ赤で染まり、ニナハの腰回りは生温かい液体でびしょびしょになっている。 「さて、本番と行こう」  鋭い牙と滑りを帯びた舌がタエに近づく。  腕、足……順番にもがれていく。  その度にタエが泣き叫び、地面をのたうちまわる。  ニナハの心は恐怖に震えていた。  その振れ幅はどんどん大きくなり──そしてある時プツンと切れた。 (神の恩恵なんて、もういらない!)  ニナハは唇を窄め、口笛を吹く。  出だしは鎮魂歌と同じだったが、すぐに異なる節に変わる。  化け蛇の動きが止まった。 「ぐおぉ! なんだこの旋律は! いつもとは違う!」  変化は化け蛇の苦しみだけではなかった。  ニナハの周りにラオの花が咲き始める。  それを見てニナハは自分の推測が当たっていたことを悟った。  鎮魂歌からラオの音を抜いた新しい旋律は、さらなる効果をもたらしていく。 「その曲を止めろぉ!」  化け蛇がニナハに迫る。  だが、今度はあちらが見えない壁に阻まれた。  ニナハと化け蛇の間に、青い少女が立っている。  少女は歌い始めた──ニナハが口笛で吹く「活魂歌(かっこんか)」を。  すると、ラオの花が一輪強く輝き、今度は青い少年が現れる。  少年もまた歌を歌い、次の花が咲いてはまた青い誰かが現れ繰り返される。  歌が力強くなるにつれ、化け蛇も弱っているようだ。  そしてついに──。 「カナ……?」  タエの側に、タエと同じ顔の少女が立っていた。  カナはタエの方を振り返り、にこりと笑う。  ニナハは彼らの正体を悟る。 (贄の、魂か!)  体は失われても、魂はこの場に止まり続けていたのだ。  だから、タエはカナとの繋がりを感じたままだった。  全てのラオの花が贄の魂に変化すると、全員の魂が明滅し始める。  やがて魂が一つにまとまり、青年男性の姿を象った。  その顔は若い頃の父によく似ている。 「開祖……?」  ニナハが呟くと、開祖はにこりと笑ってタエの元へ近寄った。  開祖の魂が青い粒子となってタエの体に降り注ぐ。  失われた四肢が元に戻った。  ラオの花と同じ青い光を放っている。  タエがゆっくりと体を起こす。  その顔は、不敵な笑みに満ちていた。 「この詐欺蛇野郎が。覚悟しろ」  タエは信じられない跳躍力で、化け蛇の頭上へと飛び上がる。 「やめろ、助け──」 「成敗!」  タエは渾身の力で化け蛇の額をぶっ叩いた。  その瞬間、ニナハは血液が沸騰するような熱と共に、全身に激しい震えを覚える。  もう、これを恐怖だなんて言い訳はしなかった。      視界一杯に広がる平原の中で、タエは荷物を肩に担ぎ佇んでいる。  ニナハは、その後ろ姿を眺めていた。  村の外は驚くべき広さだったが、今は素直に興味を抱くことができない。 「やっぱり、あの村の人間はおかしい」 「これからマシになっていくだろ。もう神はいないんだから」 「俺はこれからの話がしたいんじゃないんだ。だって……」  タエがこちらを振り返った。  顔半分が火傷痕で覆われている。 「仕方ないだろ? 村の人間にとっては、あたしは神を殺した重罪人なんだから。死ななかっただけマシだよ。ニナハが取りなしてくれて助かった」  ニナハは下唇を噛んだ。  顔を焼いた上で村を追放するなど、常軌を逸してる。 「そう暗いするなって。長になって、村を改革するんだろ? 今からくよくよしてたら、やってけないぞ」  ニナハは込み上げてきた涙をぐっと抑えて、深く頷いた。  それから、ポケットからハタル(縁結び)を取り出し黙って差し出す。 「これ、あたしに?」  ニナハはそっぽを向いた。  驚いているだろうか。  呆れているだろうか。  いや、下手するとまた股間に一撃もらうかもしれない。  当時の衝撃を思い出して冷や汗が流れたが、ふと頬に柔らかいものが当たった。  目を見開いて顔を上げると、タエは優しく目を細め、ハタルを受け取る。 「ありがと」  前へ向き直り、タエが歩き出す。  段々と小さくなる背中に向かって、ニナハは渾身の叫び声を上げる。 「好きだー!」  タエは後ろ手で手を振って応えた。  やがてタエの姿は見えなくなる。  頬を伝う涙を拭い、村の方へ踵を返すと目の前に大きな水溜まりがあった。  表面にどんよりとした空模様が映っている。  ニナハは思い切り地面を蹴って飛び越えた。  その勢いのまま、走っていく。  やがて空には晴れ間が見え、水面には美しい虹が映った。  
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