細波の向こう

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================================================ …… 小生の手紙が果たしてそちらに届き、ましてや読んでいただけるものか分かりませんが、この気持ちが止み難く、こちらから何をお願い出来る義理など無いのは承知しておりますが、敢えて恥をしのびお手紙を送らせていただく次第です。 宛先はおろか屋敷の所在地も一切、知らされずにきてしまった故、連絡を取る手段は一切ありませんが、仲介をしていただきましたK——氏に無理を言い頼み込み、そちらを経由して郵便を届けることになっております。 K——氏はそちら様との信頼関係を理由に、取り継ぎを固く拒んでいたのですが、小生の勢いに押され、手紙を送ることだけは請け負うと無理を聞いていただけました。 偏に小生が責任あること故、何卒、K——氏を咎めることは無きようお願いいたします。 こちらのたってのお願いなのですが、小生の解雇を撤回していただきたく思いこの手紙を書かせていただきました。 このたびの小生のおかした不始末に大変な憤りを覚えての解雇と思われるのですが、是非とも再考をし願わくば、再びご子息の家庭教師としての任を賜わりたく存じます。 あらかじめ堅く言いつけられていたことを軽んじてしまった、こちらの落ち度は今や身に沁みて感じ行っている次第です。 どのようなお詫びの言葉を重ねても許されることもないのも承知しておりますが、それでも小生は再びその屋敷でのお仕事に戻りたいと願っております。 どうか御一考を願います。 ================================================ …… お手紙、拝読いたしました。 当家の主人からの御返事として執事長・×××がその代言としてこちらの手紙を書かせていただきます。 及び、こちらからの手筈で、K——氏の手に届いたこの文書を貴殿の前で読み上げていただき、その後焼却の処分をすることを約束させていただいておりますことを御了承願います。 それからこの手紙の内容共々、当家のこと全ては他言なさらず忘れていただくよう願います。 初めにご希望の件ですが、遺憾ながら復職に応じることは出来ませんことを申しておきます。 以下、誤解無きよう、申し添えるべき事柄を説明いたします。 当家の主人が憤っていると思っていらっしゃるようですが、そのようなことはなく、ただ出来した事態に大変心を痛めており、当家の中の者全てと同じく、今は目前のことで手が塞がり他のことに気の回らないことになっております。 貴殿になされるべき説明が無かったことはすべてこの混乱によるもので、納得のいかないのも当然のこととして、この度この書状をもって説明に替える次第であります。 当家の跡継ぎとなる▽▽▽への教育として相応しい家庭教師として貴殿をK——氏より紹介され、その通りの成果は見受けられておりましたが、過日の行き違いにより教師の任を解かざるを得なかったことはこちらでも誠に遺憾に思う次第であります。 当家では、この度の事はこちらからの説明が足りなかった事による不幸な事故として考えており、貴殿のみが責めを負ったことからの解雇ではなかったことを御理解ください。 さて、貴殿が屋敷に来られて思われていただろう様々の不審の点ですが、全て当家の存在を外部から守るためであったことを申し上げておきます。 こちらにおいでいただく際に、車にお乗りいただいた折、いかにも秘密めかしての目隠しをしていただきましたが、これはすぐにお分かりいただけたと思いますが、当家の屋敷までの道のりを隠すためであり、宛名と同様、限られた者のみ屋敷の場所を知るようにする為です。 そうして屋敷の中、そこで居住する者全てが素顔を隠すために各々がマスクを被り終日過ごしているのも、重要なものを守るためでした。 当家主人の嫡男、▽▽▽にまた仮面をしておりましたが、貴殿はその下の素顔を見たであろうことは、手紙を受け取ってから確信したものであります。 当家のしきたりや屋敷内の違和感に、もしかしたら今の貴殿は気付いてらっしゃるようにも思えますが、この先、貴殿が確実に忘れるために全てを知っていただくことになりました。 当家の総領は代々、呪いの顕現を持って産まれてくる家系であり、それは遡る先代から現当主と嫡男である▽▽▽に至るまで全てがそれが見てとれるものでした。 同時にその呪いは必ず周囲にも影響を及ぼしてしまうことは当家において明らかであり、不幸が連鎖することを防ぐ為、世間との交わりを断ち孤絶した場所に隠れ棲むことになりました。 何者によるものなのか、今は誰も知らないことになりますが、代々、当家の総領に継がれてしまう「呪い」とは、その容貌に顕れるものです。 貴殿が仮面の下を見たのであれば理解できているかと思います。 見た者の心を奪ってしまうようなこの世ならぬ美しい容貌こそが、当家の総領に科せられた呪いでした。 ギリシアのある神話では、この世ならぬ醜く恐ろしい容貌で見た者を石に変えてしまう鬼女が出てくるようですが、これはちょうどその正反対の美貌をもって見た者の心を捉え放さなくなる、そんな呪いでした。 素顔を見た者はそれに服従し、二度と逃れられなくなるような、どこまでも美しい容貌。 これを「呪い」と呼ぶのを不思議に思うかもしれません。 他者を支配することが大きな力であれば、確かにこれは大きな力ではありますが、それは意思を持って御することが出来てこそであり、当家での顕現においては意思をよそにしてその力が及んでしまい、自他を滅ぼす不幸に連なるものでしかありませんでした。 貴殿は屋敷内に置かれた反射するもの、……鏡や銀器らがことごとく曇りものを映さないものだったことを思い出せる筈です。 来客の部屋など、当家の外部の者の滞在する部屋にはごく小さな鏡が置かれているのですが、それ以外は霧のかかったような曇った鏡ばかりになります。 この屋敷の総領には、鏡こそが危険なものだったのです。 見た者は心奪われる美貌、それはその持ち主自身であっても例外では無かったのです。 貴殿がされたこと……▽▽▽がそれまで一度も見たことのない自分自身の顔を、仮面を外し鏡で見せること……それこそが当家では恐れ遠ざけてきた事態でした。 鏡の向こうに初めて自分自身の顔を見て、▽▽▽は向こう側に囚われてしまい、戻って来られなくなってしまう。 そして正にあの時以来、▽▽▽はこちらの呼び掛けに応じることはほぼなく、現世に戻ってこなくなりました。 当家の主人は、ギリシア神話でナルキッソスの呪いを思い合わせておりました。 水鏡に映った自分自身に恋焦がれ滅ぶこの呪いこそが代々に伝わってきたものではないか、と。 その顔を映さないように風を送り水面をふるえさせ、さざ波の向こうに呪われた美貌を隠しおおせなければならなかった。 それが破られてしまったのです。 貴殿も不幸にして見てしまったのであれば、現世に戻るのが難しいかもしれない。 復職の希望がその顔を見たことによる呪いからのものであるのではないかと懸念はしておりますが、何よりも現在、当屋敷には家庭教師の必要が無くなってしまったのです。 この手紙で全て納得していただくのは難しいと多いますが、こちらで出来ることはこれが全てになります。 約束通りにこの書状は火をつけて完全に消し去ることになっています。 貴殿におかれては、どうか当家のこと、▽▽▽を忘れ現世の日常に戻ることをお勧めします。 ……
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