スノーホワイト

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「お構いなくどうぞ。狭いし、少し散らかっていますけど」  一足先に玄関先へと進み、照明を点けてから彼女を部屋へと案内する。  実際、低月給の僕にお似合いの見窄らしい住居だった。四畳半のアパートの一室は所々に黴がこびり付き、建物自体の老朽化が垣間見える。壁が薄いせいで防音性は皆無で部屋も寒い。暖房を付けようにも、高い電気代を抑えるために余程のことが無い限りは極力控えていた。  それでも来客の時まで暖房を渋るのは人としてなっていない。そう卓袱台の上のリモコンを拾い上げたところで、手が止まった。  本当に部屋を暖めても良いものだろうか。今回の客人は雪女だ。寒さに強い代わりに暑さに極限まで弱いということは断然あり得る。最悪の場合、その場で融けてしまう可能性もあるのではないか。  顎に手を当てながら、ふと彼女の方を見やる。外套を玄関のハンガーにかけ、卓袱台の前に腰を下ろした彼女は、手の間で何かを擦り合わせていた。白くて平たい布状の物体、その正体がカイロだと判った瞬間、急に自分の憶測が馬鹿馬鹿しくなった。 「にしても凄い吹雪でしたね。この地域じゃ今時珍しいですよ。雪が降ることさえあまり無いのに」  暖房を付けた僕は、冗談交じりに彼女に向かってそう言った。いつ振りの出番かも覚えていないやかんをガスコンロの火で炙る。錆びついた金属器の中で、入れたばかりの水道水が沸々と悲鳴を上げ始めた。 「この辺じゃ見ない顔ですよね。と言っても、僕もこの町を熟知するぐらい長くは居ないんですけど。最近引っ越してきたとか?」  ちらと様子を窺うものの、彼女は俯いたままうんとも言わない。胸が圧縮される程の沈黙の中、コンロの青い火柱をじっと見つめる。帰宅したらすぐに寝る生活が続いたせいですっかり忘れていた。静寂の中の炎というのはこんなにも心安らぐものだったのかと。  物思いに耽って時間を浪費したところで、やがてやかんが蒸気と共に甲高い声を上げ始める。白湯にするかどうか訊くべきだったかな、と考えつつも二人分のカップに緑茶のパックを入れ、熱湯を注ぐ。せめて食器だけは立派にしようと活き込んだ青磁製のマグカップだ。 「お待たせしました。これを飲んであったまってください」  振り返り言葉をかけようとしたその時、暖房に勝る程の冷気を全身で感じ取った。黒ずんだ白いカーテンが大きく揺らいでいる。驚いて厨房にカップを置き、発生源と思しき窓辺へと駆け込んだ。  見るとそこには、先程まで卓袱台の前に居たはずの雪女が欄干に腰掛けて虚空を見つめていた。美しい銀髪が猛烈な吹雪で乱されている。一瞬心を奪われかけたものの、異質すぎるその光景にふと我に返り、慌てて叫んだ。 「何してるんですか! 早く降りてください! 危ないでしょう?」  歩み寄ろうとして、また直前で静止してしまう。こんなことをしている余裕はないのに。今にもその華奢な肉体を投げ出そうとしているのに。振り返った彼女の横顔があまりにも儚くて、このまま彼女が雪の帳の中へ消えて無くなりそうで、思わず足が止まってしまったのだ。 「……ごめんなさい。せっかく、ご厚意で家の中に入れて下さったのに」  視線を落とし、雪女は呟いた。薄暗闇のなか目を凝らすと、スマホを包み込む彼女の手の甲がささくれや霜焼けで酷く炎症しているのが見て取れた。 「でも、もう限界なんです。どうか止めないでください。私みたいな人間、この吹雪の中に埋もれるのが性に合っているんです」 「何を言っているんだ、早く中へ!」  そう促している合間にも、彼女はじりじりと欄干の外へと身体を滑らせる。  ふと街灯の下で立ち尽くしていた時の姿が脳裏に浮かぶ。初見で美しいと感じていたあの表情は、思い返せばどこか虚ろで、指一本触れただけで崩れてしまいそうな程の危うさがあった。  喩えるのならそれは、行き場を失ったごみ捨て場の人形だ。人目の付かない場所で密かに破壊され、業火に溶かされて。  そこまで考えた途端に足先が震え、気付けば僕は彼女をきつく抱きしめていた。吹雪の中で消えて無くならないように。白い業火で肉体を溶かされないように。 「お願い、何処にもいかないで」  会って間もない女性に向かって、運命の人に捧げるような言葉を呟く。 「事情は判りませんが、目の前で死なれるのは流石に悲しくなります。どうか、せめて今日だけは居なくならないで。一晩だけ、僕の隣に居てください」  腕の中で聞こえた彼女の息の音が、吹雪の雄叫びの中ではっきりと耳に残った。 「今日僕、誕生日なんですよ。赤の他人とはいえ、誰かを悲しませるよりは喜ばせた方が気分が良いでしょう?」  一か八かのハッタリに、雪女の動きが確実に止まる。全身が凍てつく程の北風と、先刻とは違う味の沈黙が二人を包み込む。  そうして暫しの逡巡の末、彼女はその冷たい両手で僕の腕にそっと触れた。肯定の意と捉えて問題なさそうだった。少し力んだ拘束を慎重に解いていく。
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