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照明を落とすその瞬間まで、僕は彼女に何も声をかけてあげられなかった。
布団にもぐった雪女に背を向ける形で、僕は玄関から台所にかけての木目の床で横になった。頑張って目を瞑ってみるも中々寝付けない。重い瞼と覚醒する脳の狭間で、意識だけが延々と暗闇を彷徨っていた。
僕はあの時、何と声をかけるべきだったのだろう。
そもそもいくら飛び降りを阻止したとはいえ、今日会ったばかりの人に対して自分が何か言える立場に立っていただろうか。街灯の下で傘を差し出した時、僕は何がしたかったのだろう。その場の感情に身を任せ、ただの自己満足で暴走していただけではないか。
種々様々な思考が頭蓋骨を乱反射し、四方八方に飛び回る。無駄な思考に脳のリソースを使い、胃の辺りで沸々とした吐き気を覚える。
もっと単純に物事を考えられる質だったなら。そんな在りもしない妄想が胸中に浮かんだところで、背中にふと違和感が滲む。
服の裾を引っ張られる感覚。何事かと振り返ろうとしたところで、動きが止まる。背後にある気配と息遣いが、説明せずとも全てを物語っていた。
「……驚かせてごめんなさい。ただ、ちょっと寝付けなくて」
雪女の細やかな声が背中越しに届いてくる。何故、布団にもぐったはずの彼女が此処に居るのだろう。そんな疑念も瞬く間に妙な安心感へとすり替わっていく。
「私をもう一度、抱きしめてくれませんか。先程、ベランダでやってくれたように」
冷たくも芯に温もりがある手の感触が、背中に伝わってくる。
「急に人の温もりが恋しくなっちゃって。おかしいですよね、今まで世間から迫害されてきたはずなのに。……久々に、人の優しい部分に触れたからでしょうか」
慎重に寝返りを打ち、彼女と向かい合う。人形の如く艶やかな肌。つぶらで俄かに潤った瞳。精巧に作られたその美しい顔を目前にし、心臓がどくんと跳ね上がった。
「……お願いできますか」
上目遣いに懇願する雪女。不安で委縮するその華奢な身体を、脳内のあらゆる雑念を振り払って、静かに抱きしめた。簡単に腕の中に収まってしまう程の矮躯と、容易く折れてしまいそうな程の身体の細さが、僕の胸の芯をきゅっと萎めた。
「ああ、やっぱり──」
胸の中で吐息をつき、彼女は僕の背中にそっと腕を回す。
「こうしていると、一瞬だけ世の中の残酷さを忘れられますね」
しみじみと、彼女は言葉を紡いだ。
「ありがとうございます。今日のこと、一生忘れることはないでしょう」
露台の時はその緊迫感から実感が湧かなかったものの、今なら確かに解る。腕の中の彼女は雪女でありながら、身体の芯が湯たんぽのように温かかった。
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