片牙

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片牙

 東の空が白み、各遊女部屋の戸が開く音がする。  一夜を過ごした客を送る為である。  紫雨(しよう)雨月(うげつ)に視線を向けた。まだすうすうと眠っている。  その寝顔があまりにも気持ち良さそうなので、紫陽は起こそうかどうしようか躊躇う。  しかしこのまま置いておくわけにはいかない。女将に見つかれば大目玉である。 「もう起きて下さいまし」  恐る恐る肩に手を伸ばし揺する。  雨月はとても珍しい格好をしていた。  西洋人が着ているシャツを身に着けているが、色は白ではなく水色。しかも赤や青といった花が描かれている。シャツのボタンは上二つ開けられており、黒いズボンに裾を入れることもせずだらしない。  目立って仕方ないだろうなと思いつつ、紫陽は揺さぶり続ける。 「ん……」  微かな呻きと共に、雨月が細く目を開けた。 「早くお帰り下さいませ」  雨月から眠気を追い払おうと、紫陽は窓の障子を明け放した。 「閉めてくれっ!」  先ほどまで眠たそうにしていた雨月からのいきなりの恫喝(どうかつ)に、紫陽の体はビクリと跳ねる。  見ると、雨月は体を丸め、腕で顔を庇っていた。 「そ、そんなに眩しいですか? まだ日が昇り始めたばかりなのに……」  そう言いながらも、雨月の様子が気になり障子を閉める。  閉められたのを確認すると、雨月は恐る恐るといった風に腕を下ろす。しかしその目はまだ眩しそうだ。 「目は覚めました? 遊郭の掟ぐらいはご存知でしょう? 早くお帰りになって下さいまし」 「帰らない」  廊下側の障子に歩を進めていた紫陽は驚いて立ち止まる。 「何をおっしゃっているのか分かっておりますか?」  本当に変な客ばかりが来る。小さく溜息をつき、雨月の方を見る事無く廊下の障子を音高く開け放つ。  それでも雨月が動く様子が無いと分かると、紫陽は振り返ってキッと睨んだ。  しかし、睨むために険しく細められた目は、次の瞬間驚きに見開かれた。  薄暗い室内の隅から雨月がこちらを見ている。  夜道で出会った犬や猫のように瞳を光らせて。  しかし犬猫と違い、雨月の瞳は紫色に光っていた。 「その目は……」 「これは……」  雨月が口を開いた時、廊下から足音が聞こえてきた。 「紫陽、あんた何うるさくしてんの」  足音の主は、紫陽の部屋の前で足を止め仁王立ちになる。 「椿(つばき)……」  紫陽は振り返り友人の名を呼ぶ。 「どうしたの? いつもはとっとと客を送り出してるあんたが。例の客が起きないとか?」  そう言いながら椿は紫陽の肩越しに室内を覗き込んでくる。 「あら!」  雨月と目が合った椿はポッと頬を赤らめ、ささっと襟元などをただす。 「ここら辺じゃ見ない格好だねぇ。名前は何て言うの?」  遠慮する事も無くずかずかと紫陽の部屋に上がり込み、雨月の前に立つ。  雨月は椿を見上げると、口元に笑みを浮かべ名乗った。 「雨月か。良い名前」  椿は、雨月の顎を掴むといきなり口付けた。  しかしすぐさま雨月を突き放す。 「あんた、それは……」  またしても雨月の瞳が光る。  すると椿は急に踵を返し、すたすたと部屋から出て行った。 「やれやれ、これでゆっくり眠れる」  一つあくびをすると、雨月は両手を頭の後ろで組み寝転がる。 「雨月……あなたの目は何?」  訝しげな表情で問う紫陽に、雨月は寝転んだまま目も開けずに「元、人間」とだけ短く答えた。 「元?」 「後で……とにかく寝かせて。あ、絶対に障子は開けるな」  そう言うと再び寝息を立て始めた。 「まったく……」  紫陽は盛大に溜息をつく。と、同時に階下から「朝飯だよっ」という女将の声が聞こえてきた。  貴重な御飯をくいっぱぐれるわけにはいかない。  仕方なく雨月に布団を掛け下りて行った。  一枚板の卓が中央にでんと置かれた食堂には、すでに多くの遊女が集まっていた。  客に見せるしとやかな仕草などは無く、各々あぐらをかいたり片膝を立てて談笑している。  紫陽は椿の姿を探し、その隣に座った。 「おはよ、紫陽」  眠そうにあくびをしながら、椿は紫陽に湯呑を渡す。 「あ、ありがとう」  変だ。  絶対に雨月について訊かれると思っていた。  しかし椿はいつもの様に気だるそうに箸を動かしている。  まるでさっきまで自室で過ごしていたかのように。  紫陽もあえて雨月の話をしなかった。椿が忘れているにしろ黙っているにしろ、女将や他の遊女に知られると面倒だと思ったのだ。  騒がしい朝食が終わると、自由時間である。  夕方には髪結いがやってくる。それまで各々寝るもよし、買い物へ行くもよし。  しかし、雨月がいるまま外へ出る事も、寝る事も出来ない。  叩き出そうにも、今の時間まで男がいたと知られれば怒られるのは分かっている。  さてどうしようかと、紫陽は足取り重く自室へと戻った。  雨月は大きな体を猫のように丸めて眠っている。  小さく溜息をつき、紫陽は鏡台の前に腰を下ろし簪かんざしを抜いていく。  はらりはらりと肩に落ちる髪をぞんざいに手櫛で梳きながら、紫陽は引き出しから一つの巾着を取り出した。  揺らすと、中からは小銭がぶつかり合う音。  その音が耳に入ったのか、雨月が小さく呻く。 「雨月?」  起きたのかと、振り返って様子を見る。  雨月は汗を浮かべうなされていた。 「大丈夫?」  起こして水でも飲ませた方がいいのだろうかと肩に手を掛ける。  その手をいきなり掴まれた。氷のように冷たい手に驚く。 「え?」  そのまま強く引き寄せられる。  首筋に、生暖かい息がかかる。  そしてチクリと針で刺されたような痛みが走った。 「痛っ……!?」  紫陽が反射的に突き放すより早く、雨月に突き飛ばされる。 「何を……っ」  あまりの強さに、打ち付けた尻をさすりながら雨月を見た目は、ぎょっと見開かれた。  閉められた障子によってぼんやりと差し込む日の光。  それによって鈍くきらめく紫の瞳と、口元から覗く片方だけの牙。そしてその先に付着している赤いもの。  紫陽は首筋に手をやる。  さっきまでは無かった、虫刺されの様な小さなものが出来ていた。 「吸血鬼。そう呼ばれるらしい」  雨月は汗を拭い、一つ息をつく。 「……人間じゃないのね」  震えそうになる声をぐっと我慢し紫陽は問う。  その問いに対し、雨月はふっと鼻で自嘲気味に笑うと、左の牙に触れる。 「片牙だから半分人間……かな」 「どういう事?」  眉をひそめる紫陽に、雨月は再び寝転がり言った。 「その話は長くなるからまた今夜。それまで君は好きなように過ごしておいで」  俺の事は気にするなと言い残し、雨月は頭から布団をかぶる。  紫陽は巾着を拾い上げると、足早に外に向かった。 「吸血鬼ぃ!?」  濡れた髪をぎゅっと絞りながら、椿はカラカラと笑う。  行きつけの風呂屋で熱い湯に浸かった紫陽は、とりあえず頭の中を落ち着かせていた。  そこで偶然椿に出会い、雨月の話をしてみたのである。  しかし椿は今朝の事を忘れていた。むしろ雨月という人物に出会っていないと言う。 「確か人の生き血を吸う妖怪でしょ。で? その吸血鬼の雨月っていう男がいるって?」  紫陽は首筋を見せる。椿はまじまじと見つめた後、苦笑しながら「虫刺されじゃない」と言った。  紫陽を見る目が、心なしか気の毒そうになっている。 「あんた疲れてるんじゃない? 早く休みなよ」  反論を待たずにそう言うと、椿はそそくさと風呂屋を出て行った。  仕方なく紫陽も腰を上げ風呂屋を出る。しかしすぐに部屋に戻る気も起きず、通りをぶらぶらと歩く。  この時間になると、ほとんどの遊女は休むために自分の(くるわ)に戻っているために人通りは少ない。それに合わせて、店や行商人も商売を終える。  紫陽はそんな行商人たちの横を通り過ぎようとした。その時、片付けながら交わされていた会話が耳に入ってきた。 「吉原の……っていう遊女だろ。可哀想になぁ。まだ下手人は見つかってないんだろ?」 「下手人っていうか、あれは人間業じゃないだろ」 「まぁ、血が抜かれて干からびてたっていうからな」  紫陽の足が止まる。  それに気が付いたのか、一人が紫陽に苦笑を向ける。 「すまないねぇ。物騒な話して。同じ立場のもんとしていい気分じゃないだろう」 「いえ……初耳です。どういう事なんですか?」  興味を持ったのが意外だったのか、二人顔を見合わせる。 「つい先日、吉原で死体が見つかったんだよ……」  行商人は手を止め語りだした。  吉原の中では下流に位置するとある遊郭。  その遊女は、客もつかないお茶ひきだった。  しかし気にやむ事は無く、遊女たちからは好かれる性格をしていたという。  それが先日、朝が来ても姿が見えない。昨日もお茶ひきだったので、客の相手をしていて寝過ごしているわけではない。  まぁそのうち起きてくるだろうという事で、朝食の時間になっても誰も呼びには行かなかった。  そうしていると自由時間になり、みんなその遊女の事は忘れてしまっていた。  夕方、髪結いの者がやってくるまでは。  仕事前のいつもの風景。通いの髪結いがやってきて、遊女たちの髪を結う。その髪結いが例の遊女の部屋を訪れた。ふすまの前で声を掛けるが返事が無い。この時間に部屋にいないのは珍しい。仕置き部屋に入っているのなら別だが。  掟を破る人ではないのだが。首を傾げながらもう一度声を掛けた。  その時、カタンと小さな音がした。  もしかして体調でも崩していて声も出せないのかもしれない。  髪結いは急いでふすまを引き開けた。  夕日で赤く染まった部屋。開けられたままの障子。  そこに寄りかかっている、艶やかな着物を着た遊女。  しかし遊女の体は、何年も外に捨て置かれていたように白く干からびていた。  番所の者たちが来て、この異様な死体の検分が行われた。  死因は失血死。体中の血が無くなっていた。  しかし大きな傷は無く、見つかったのは首筋に二つ並んだ、少し大きな虫刺されの跡だったという…… 「人の血を吸う大きな虫なんて聞いたこともないし、人間の仕業としてもなぁ……」 「妖しげな外法でも使ったんじゃないか」  まぁ気を付けなよと言い残し、行商人たちは大門へと去って行った。  紫陽は首筋に震える手をやる。『失血』『虫刺され』そして『吸血鬼』……  しかし紫陽が戻る場所は驟雨楼(しゅううろう)にしかない。  ぎゅっと巾着を握りしめ、紫陽は帰途についた。  ふすまを開けると、出てくるときと変わらずに雨月は布団にくるまっていた。  小さく唾を飲み込み、紫陽は障子側に腰を下ろす。そして意を決したように一度口元を引き結ぶと名前を呼んだ。 「雨月」  答えるようにのっそりと雨月は目だけをだす。 「まだ明るいじゃないか……」  と言うと、再び隠れてしまう。 「吉原で遊女を殺したのは貴方?」  紫陽の問いに、だらけていた雨月の雰囲気が変わった。  ぴんと糸を張ったような緊張感。  やがて、「違う」と返ってきた。 「吸血鬼なのに?」  紫陽はそろりと障子に手を伸ばす。眩しいのが苦手なようだから、襲ってきたらすぐに開けてやろうという魂胆である。  しかし雨月は襲い掛かってこなかった。上体を起こし、ただじっと紫陽を見つめる。紫に光る瞳で。  そして微かに首を振ると再び横になる。 「ちょっと……」  雨月の態度に業を煮やし、紫陽は思わず雨月に近寄ってしまった。  雨月の手が伸び紫陽の腕をつかんだ。ひやりとした感触に、紫陽は手を振りほどこうとするが、それより早く布団の中へと引き込まれる。  襲われる……っ!  ぎゅっと目を閉じ、身を固くした紫陽だったが、首筋に痛みが走る事は無く、布団の温もりに包まれた。  恐る恐る目を開ける。目の前には雨月の胸があった。  寝息に合わせて規則正しく上下する胸に、紫陽はそっと耳を傾けてみる。  鼓動は聞こえなかった。  紫陽は心臓があるだろう場所に手を添えてみる。やはり鼓動は感じられず、ただシャツ越しに肌の冷たさが伝わってきて、紫陽は改めて人間じゃないなと思った。  それをなんだか悲しく感じながら、紫陽は眠りに落ちていった。
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