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驟雨楼の火災は、不思議な事に一人の死者も出す事無く鎮火した。野次馬の話によると、紫色の光が驟雨楼全体を包んだかと思うと、じゅっという音と共に一瞬で火が消えたそうだ。
紫陽はというと、何も覚えていなかった。二階から落とされたらしい。では、落とした人物は? と問うと、皆知らないと首を振るばかり。ただ男の様な人影が見えたからとだけ。
鎮火後、中に踏み込んだ人が語るには、奇跡としか言いようがないらしい。建物は燃えているが、人は全くの無傷だったからである。皆、焼け焦げた部屋ですうすうと寝息を立てていたらしい。目が覚めた皆も、紫陽と同じく何も覚えていなかった。ただ二階の一室には大量の血痕と銀の刀、そしてこの驟雨楼に髪結いとして来ている男が倒れていた。男は目覚めると、何も言わずに立ち去ってしまった。左目を酷く気にしながら。
驟雨楼は建て直しの為、しばしの間休業となった。遊女たちは長屋へ居を移し、ある者は何十年振りかの、またある者は初めての休暇を送っている。
そんなある日、椿が息せき切って紫陽の長屋に駆け込んできた。
「紫陽! もう聞いた?」
「何?」
椿は両膝に手を置き、息を整えてから口を開く。
「私たち、自由になるのよ!」
「え?」
いきなりの事に、紫陽はポカンと間抜けな表情をしてしまう。
「なんでも、びっくりするほどの美女がふらりとやってきて、『これで驟雨楼の遊女全員を買いたい』って金をどんって」
「女の人が? 珍しいわね」
「そうでしょ~? でもどうやら普通の人じゃないらしいわよ。瞳の色が金色だったとか、胸元に凄い傷跡があったとか……」
「ま、私が見たわけじゃないんだけどね~」と、椿は頭を掻く。
「でもいきなりの事でどうしたらいいのか、正直分かんないんだよね。ここを出て行っても、手に職があるわけじゃないし、どうしよう……」
その時、一人の男が「すいません」とやって来た。見知らぬ顔である。しかし椿の顔はぱっと明るくなった。そして男の名らしきものを呼ぶ。
「どうしたのさ。今は昼で……あ、遊女じゃなくなったし。何の用?」
「迎えに来ました」
男は頬を染めながらも、椿の目をしっかりと見つめて言う。
「え? でもあんたが金を払ったんじゃないでしょ?」
「ええ……ですが……」
先程、黒い着物を身に着けた女がやってきて、「好きな女は自由になったから迎えに行け」と言ったそうだ。
「これからは、私と生きていきましょう」
男がおずおずと差し出した手を、椿はぎゅっと握り返す。
「何も出来ないけど……よろしくっ!」
椿はにかっと笑んだ。
ちくんっ
紫陽の首筋が痛んだ。思わず手をやる。そこには、虫刺されにしては少し大きく、えぐれたような跡が一つ。
「良かったじゃない、椿。幸せにね」
紫陽は微笑む。
「ありがとう。紫陽、あんたも幸せに」
椿は紫陽に抱き着きそう言うと、男と手を繋ぎ去って行った。
その背を見送りながら、そっと指先で首の傷に触れる。この傷を見る度、触れる度、紫陽の胸は何故か切なく締め付けられる。いつついたのか分からない傷なのに……
紫陽は外に出た。他の遊女たちの長屋も何だか騒々しい。荷物をまとめている者、椿の様に男が迎えに来ている者様々だ。
「あ、紫陽。物売りが来てるって。行かない?」
一人の元遊女が巾着を手に、声を掛けてきた。特に用もない紫陽は頷く。
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