7人が本棚に入れています
本棚に追加
大江山の鬼
夕刻を告げるカラスの鳴き声で目が覚めた。障子が開けられており、橙色に染まった空を鳥の群れが飛んでいく。他の遊女たちも起きだしたようで、控えめな物音が聞こえてくる。
紫陽は上体を起こして首をめぐらす。雨月の姿はなかった。
はっと首筋に手を伸ばすが新しい吸血の跡はなく、ほっと胸をなでおろす。
そうしていると、ふすまの前に人が座る気配がした。そして「明です」と落ち着いた声。馴染みの髪結いである。
紫陽は慌てて布団をたたむと鏡台の前に座り、どうぞと答えた。
すっとふすまが開かれ明が入ってくる。紫陽はこの時間が好きである。
静かに優しく髪に触れる、男にしては繊細な指。その指がふと止まった。
「どうかしました?」
鏡越しに問いかける。
「首筋に……」
ドキリと紫陽の心臓が跳ねる。
普通、髪結いの仕事をしている者は遊女の体については口にしない。それは明も知っているし普段は言わない。
という事は、明も血を失った遊女のことを知っているのだろう。
「ああ、虫刺されです」
一つしかないでしょう? と首筋に手をやりながら言う。
「知ってらっしゃるんですか」
意外だという声音。
「遊女たちが怖がらないよう、公にはされてないのですが……」
「偶然行商人から聞いたの」
「そうですか」と答え、再び指を動かす。
「それにしても本当になんなのでしょうね。流行病なのか、新種の虫なのか。人だとしたらさらに恐ろしいですね」
紫陽は言葉に引っかかるものを感じた。
「流行病?」
そう。流行っているというのだ。
「私が聞いた話だと吉原の遊女だけだと……」
「亡くなったのはその方だけです。が、ほかにも同じような跡がある遊女たちが貧血で倒れていて」
吉原の遊女たちばかりがそうなっているので、中には吉原から出たいと女将に訴える者もいるそうだ。
「しかし病や虫だとしたら、そのうち外にも広まりそうですね」
「だから十分気を付けてください」と付け加え、最後にぽんと肩に手を置く。
「出来ました」
紫陽は首を動かし左右を確認すると礼を述べた。
「では失礼いたします」
来た時と同じように廊下に座って頭を下げ、その姿がふすまによって遮られた。と同時に、紫陽の背後に気配が立った。
「誰っ!?」
ばっと振り返ると、そこには雨月の姿。
「雨月……いつの間に?」
「障子を閉められていなくてよかったよ」
ふぅと息をつき、雨月は首を回す。
「どうやって入ってきたの?」
「変化して」
あまりにもさらっと答えが返ってきたので、紫陽は聞き流してしまうところだった。
「変化?」
雨月は「そう」と頷く。すると雨月の体が黒い霧のようなものに覆われる。
紫陽が目を見張っていると、霧が薄れていき、雨月の代わりに一匹の蝙蝠が現れた。
「あの蝙蝠!」
指さし、大きな声で言ってから慌てて口を押える。
するとまたしても霧が出てきて、晴れると雨月の姿があった。
「どういうからくりなの?」
ばっと身を乗り出して紫陽が問うと、遠くを見るような眼差しになり、「二百年生きてたら、いつの間にか出来るようになっていた」と暗い笑みを浮かべた。
「……今夜、貴方の話を聞かせてくれるって言ったわね」
「ああ」
雨月が頷いた時である。
「あと少しで夜見世が始まります。皆様準備の方、よろしくお願いいたします」
階下から下男の声が響いてきた。
紫陽は口元をきゅっと結ぶと一度目を閉じ、
「今から仕事でございます。すぐに出て行って下さいまし」
と雨月に告げ、豪華な打掛に手を通す。
「俺の話には興味が無い?」
「ええ。私は遊女です。金を払わない客など相手にはできません」
きっぱりと言い、雨月に背を向け紅を引くとすっと立ち上がる。
「吸血鬼よりお金か」
そう言って、雨月は自嘲気味に笑う。
「君は遊女の鑑だな」
肩越しに振り返ると、紫陽は「当たり前でございます」と冷たく言い放ち廊下へ進み出た。
最初のコメントを投稿しよう!