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「そこのお兄さん、ちょっと寄ってかない?」
甘い白粉の香りと猫なで声に満ちた半籬の内。
紫陽も妖艶な笑みを貼りつかせる。
「御茶挽にはなりたくないねぇ」
隣に座る椿が煙管をふかしながら言う。
「そうそう。変な客に買われることが多いしね」
他の遊女が賛同する。
そんな中、紫陽は明の話を思い出していた。
もし、人の手によるものだとしたら、犯人は雨月なのだろうか。「吸血鬼」。蝙蝠に変化するのも手品か奇術なのではないか。自分は変な客にからかわれているだけなのでは……
「紫陽」
野太い声に、紫陽は思考から引き戻される。
昨夜の男が立っていた。いつものように、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべて。
紫陽は心の中で溜息を吐き出すと同時に、最上の笑顔で男の名を口にする。
男が暖簾をくぐり中に消えると同時に、「紫陽さん、お呼びです」と下男が呼びに来た。
「またアイツ……」
「私じゃなくてよかったぁ~」
囁きあう声を背に、紫陽は半籬を出ようと一歩踏み出した時である。
「紫陽」
非常識なと思った。
半籬から出ていこうとしている遊女というのは、客がついたということである。遊郭に通う客なら知っていなくてはならない。それなのに声をかけるとは。
他の遊女がざわめいている。それでも無視して出ていこうとすると、椿に裾を引っ張られた。
「紫陽、めちゃくちゃいい男だよ」
頬を赤く染め、声の方を向いて息せき切って言う。
「もう椿ったら……」
ちらりと振り返った紫陽は、驚きに目を見開いた後、眉間にしわを寄せ怪訝な目つきになる。
「雨月……」
「何々? 知ってる人?」
椿は紫陽と雨月を好奇の目で交互に見ている。
「紫陽さん、お早く」
下男がせかす。早くしないとあの男が怒り出すだろう。そうなるとどんなことをされるのか分からない。
「はい、今すぐ」
雨月から視線を外し、足早に中に入る。
「何してる。遅いじゃないか」
怒気に顔を赤らめた男が紫陽の手をつかむ。そしてそのまま力任せに引っ張っていく。
「いくら?」
階段に足をかけていた二人の背中に声がかかる。
いつの間にか中に入ってきていた雨月が、口元に笑みを浮かべる。
「すみません、お客様。紫陽さんはあちらのお方が……」
「これでどう?」
ズボンのポケットから何枚かの札を出し、ひらひらと振る。
「ふざけるな!遊郭の礼儀も知らん若造が!」
「女性の扱いも知らないあんたが何を言う」
その言葉にカッとなった男は、紫陽を突き飛ばすと階段を下りて雨月の胸ぐらをつかもうとした。しかしその手は、反対に雨月に掴まれる。
あの白い手の、どこにそんな力があるんだろう……と、階段に座り込んだまま紫陽は見ていた。下男もどうしてよいのやらとあたふたするだけ。
「は、放せ!」
「これでいいですね?」
男の鼻先に札を突き付け、雨月はにっこりとほほ笑んだ。そして男の手に札を握らせる。
「下男さん、交渉成立したのでいいですね?」
いきなり振り向かれた下男は「ひっ」と息をのみ、こくりと頷く。
「女将さんも」
騒ぎを聞きつけ、いつの間にか出てきていた女将も渋々といった感じで頷く。
それを確認すると、雨月は軽くて首をひねって男を放り投げた。「軽く」見えたのに、男は下男を巻き込んで転がる。
「行こうか、紫陽」
あっけにとられていた紫陽の前に手が差し出される。
「紫陽」
顔を上げると、雨月が見下ろしていた。
紫陽はそっと雨月の手を取り立ち上がる。
ひやりとした手だった。
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