ヒゲガミ村の来訪者

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 砂の丘陵の頂上で焚き火の番をしていたユウキの元へ、一人の人物が近付いた。 「いま、戻った」  暗がりの中から声を掛けたのは、彼の兄であるチカラだった。彼らは羊飼いの兄弟で深夜の見回りと焚き火の番を交互に担当していたのだが、チカラはその見回りから戻ってきたのだ。 「兄さん、お疲れ様です」 「あぁ、お疲れ様。ユウキも寝ずの番で疲れただろう」  村の周りを一時間ほど徒歩で巡回をしていて、むしろ疲れているのは兄のほうだというのに、最近になってこの仕事を任されるようになった三つ年下の弟を気遣っていた。二人の手には、いざという時の護身用にもなる木製の杖がそれぞれ握られている。硬いリンゴの木で作られているのだが、入手が難しいため大変貴重なものだった。 「いや、ぜんぜん大丈夫だよ」  ユウキは両手の肘を直角に曲げ、にこやかに力こぶを作る仕草をしてみせた。その肌は服に覆われていて見えないのだが、チカラのほうは彼が筋骨隆々じゃないのは知っていた。 「そうか、なら良かった。辺りに異常はなかったが、ここも問題なさそうだな」  そう口にすると、チカラは焚き火越しにユウキと向き合うように腰を掛けた。そうすることで、お互いの背後に気を配ることができるからと、このヒゲガミ村での古い慣わしだった。  日中は僅かでも草のある辺りへ移動し羊を放牧しては、日没と共に村に戻るという生活が彼らの主な日常であった。ただ彼らが羊と呼んでいるのは、短毛種の犬ほどの毛しかない種類だった。この村は、羊のミルクと革と肉を得ることで生計が成り立っていた。羊を狙った外部からの侵入者や野生生物から守るため、村の外れにある一番高い砂丘を拠点に見回りは昼夜行われている。  この寝ずの番を任されるということは、この村では一人前になったことを物語っていた。木の杖はその証でもあるが、弟のユウキが上機嫌なのには他に理由があった。 「兄さん、今日来たタイシ君って凄く面白かったよね」  住民が僅か三十数名のこの村に人が訪れることはほとんど無かったため、ユウキの気分は高揚していた。 「あぁ、変な黒い格好してたし、言っていることもおかしかったな」  彼らの多くは、羊の革や麻で編んだ紐などで作られた服を纏っていたため、上下ともに黒く染められた布の服を着た人間は異質に感じていた。闇に紛れるのに適した格好は、夜襲以外には考えられないからだ。だが、この兄弟とも年齢はさほど変わらない来訪者は、その人柄から危険な人物ではないと判断されていた。  そんなチカラは、辺りへの目配せを怠らないように、ユウキとの雑談に興じた。 「そうだね。特に不思議だったのは、寒くなると空から冷たく白い粉が降ってくるってことだよね」 「確か、雪って言ってたな。この砂漠全部を、真っ白に覆い隠すとか訳が分からない。それが融けると水になると言うんだから、ますます信じられないよな」  荒涼とした大地には雨が降ることも稀で、水は遠くまで汲みに行かなければならないこの村の住人であるチカラにとって、そんな来訪者の話は絵空事でしかなかった。しかし、そんな空想的な話が彼らを魅了したのは言うまでもない。 「そうだよね。それに驚くことに、その寒さのせいでこの羊たちも全身がもこもこした毛で覆われているって言うんだから、僕は笑いそうになったよ」 「寒さから身を守るとかだよな。ここでも夜は寒いけど、羊がそこまでするような寒さではないからな。それを真顔で話すんだから、俺も吹き出しそうになったさ」  彼らは村と羊の番をするために屋外にいるが、村人は木で作られた質素な小屋で暮らしていた。さすがに柵は設けられていたが、羊は屋外で飼われていた。 「それにあの変な服装のせいで、こんな俺でも信じてしまいそうだ」  頑なな態度を示していたチカラも、自分の目で見たことは疑いようのない事実であったと受け止めているようだ。 「そうそう、ガクランとか言ってた。確か、何かの集団のお揃いとか言ってたね」  この村では、入手できる資源が乏しいため似た装いになるが、意図して揃えるなんて風習は皆無だった。タイシと名乗った少年が着ていた服は、彼らが見たこともないきめ細やかは繊維でできていた。 「それに、金色の留め具にあった六つの突起のある星のような模様。あれが何かって聞いたところから、その話は始まったんだ。何だけどよ、もうおとぎ話でしかないんだよな」  チカラは杖の先端で地面にその模様を描きながら冷笑的に言っていたが、雪の結晶が意匠された五つのボタンが付いたそれは学生服のことだった。 「でもな、その冷たい物の話は、俺も嫌いじゃないんだよな」 「って言うと?」  チカラの含みのある言い回しに、ユウキは気になって仕方がなかった。 「実は、いい案があるんだ」 「なんですか、勿体ぶらないでくださいよ」 「ははっ、悪い悪い。暑い日に、冷たい水を飲んだら美味いだろ?」 「あっ、もしかして」  いたずらっぽい表情でそう語る兄を見て、ユウキも何かを察したようだ。 「あぁ。羊の乳酒に入れて飲んだら、冷たくて美味しいんじゃないかなって、俺は想像した」  右手に空想の盃をかざして、冷酒を一息にあおる仕草をしてみせた。 「兄さんなら、もうお酒も飲めるからそれもいいかもね。僕ならリンゴジュースかな」  この砂漠の果てにあるオアシスには留まる農家がいて、古くから自生していた小ぶりのリンゴが僅かに栽培されていた。そこは井戸水と果実が入手できる、小さな小さな慈善市場だった。この辺りの地域では通貨は存在せず、物々交換で経済は成り立っていた。彼ら兄弟が暮らす羊のヒゲガミ村と、この井戸のリンゴ農家以外にも、小規模な集落は幾つか点在していた。木材から杖や机を製造したり、石を肉や革をさばくナイフに加工する技術者の集落も存在する。誰もが、生きるのに必死なのである。その人々は、誰もができれば平和に暮らしたいと願っていた。  羊酪の村の子供からしたら、コップ一杯のリンゴジュースだって大変なごちそうだった。一年に一度、誕生日など特別な日にだけ飲める特別なものだった。羊の乳酒にしても同様に、収穫祭や祈祷などの特別な日にしか飲むことが許されていなかった。だからこそ、二人は未知の空想に夢を膨らませていたのだ。 「それにしても、タイシ君は無事に帰れたのかなぁ?」 「バシャだかバスだかから落ちて、気が付いたらここだったんだよな」  ヒゲガミ村への来訪者は、彼ら兄弟が聞いたことのない乗り物から落ちてきたのだと言う。この辺り一帯には馬も生息しておらず、車輪の付いた乗り物なんていうのも見たことがなかった。 「そう、兄さんも見ただろ? タイシ君は僕らの目の前に、光りながら現れたんだ」  ユウキはチカラと共に放牧の作業をしていた際に、その黒づくめの少年は砂丘に姿を現した。ただ陽は傾き始めていたとはいえ、一人の少年が光を発するだなんていうことは考えられないことだった。彼ら兄弟はタイシを不審がるよりも前に、神秘的に感じていた。 「そうだな。やって来たというより、迷い込んできた感じだった。俺が言うのもなんだけど、結構やんちゃそうな顔をしてた。でもタイシはいい奴で、帰るまで羊を柵の中に集めるのを手伝ってくれたんだよな」  正義感の強いチカラは役割も相まって精悍な顔つきをしていたが、タイシの顔もそれに劣らないのだという。 「そうそう。ここ、サッポロからトウヤまで帰るんだって言ってた。ここはヒゲガミ村なのにね」 「そうだった。ここへは、何かを見物に来たとも言ってたな。何やら、自分の名前に関係があるとかないとか。ここには、あっても牧場しかないのにな」  タイシを含む集団は何かの物見で移動をしていて、そこではぐれたとのことだった。 「タイシ、タイシ、大した奴だ……。でも、髭は無い」  ユウキは彼の名前を連呼してみたが、来訪者や村の名前からは何も想像はできなかった。 「いや、俺やユウキにだって髭は無いだろう。でも確かに服が汚れるのを気にしないで手伝ってくれたんだから、大した奴だ。あいつだったら、この村の人も歓迎してくれたんじゃないかな」  チカラは同じ十代と思しき来訪者が去ったことを、少し寂しく感じていた。 「そうだね、月が昇りきる頃には消えてしまったからね。あれは、帰ったということでいいのかな?」  労働など数刻ほどの滞在を経て、兄弟と雑談をしていた矢先に、タイシは再び光に包まれて姿を消していた。 「僕は、そう信じる。タイシ君だったら、髭神様に会わせても良かったのにね」  食べ物はおろか飲み水さえも施さなかったことを引け目に感じていたこともあり、ユウキはせめてものとのことで、それを考えていた。 「ああ、そうだな。親父たちはどう思うかしらないけど、俺も手を合わせるぐらいはいいんじゃないかと思ったよ」 「だよね」 「だな」  このヒゲガミ村では、村人の安全と羊の成長を見守る神が祀られていた。なのでユウキが言った会わせるとは、この信仰心の強い村の神像を来訪者に見せるとの意味だった。村の名前は、その神に由来する。 「おーい、おまえたち。朝だ、交代するぞ」  東の空が白んできた頃に、小屋から兄弟の父親が顔を出した。 「父さん、おはようございます」  チカラは杖を高く振り上げ、聞こえたことと承知したことを伝えた。 「父さーん、おっはよー」  両手を上げて飛び上がったユウキは、やはり昨日の興奮からは冷めていない様子だ。 「ほんと、ユウキは元気だな」 「いやだなぁ、僕はいつでも元気だよ。それにしてもタイシ君、ほんとに帰れたんだろうか?」  ユウキが口を開けば、二言目にはタイシだ。恐らくは今日一日も来訪者の話題が尽きないのだろうと、チカラは半ば観念していた。ただ娯楽の無いこの村では、少しの体験は大きな話題となるのは必然だとも考えていた。ユウキがどんな風に話を広げていくのか、少しは楽しみすることにした。 「大丈夫だ。タイシなら、ちゃんと帰れただろう」 「だよね。それと、僕らもいつか雪って見れるかな?」  ここに人が集まり村となり、野生で僅かに繁殖していた羊の放牧を始めてから数十年となるが、これまでこの村に雪が降ったことは一度もなかった。 「そうだな。じゃあタイシのことと昨晩の仕事の無事と、今日の平和を髭神様にお祈りしようぜ。そして、雪もお願いするんだ」 「兄さん。いいね、それ」  二人はそう話すと、日課でもある朝食前の祈りを捧げるため、村の中央まで歩みを進めた。  タイシはいるべき場所に帰ったのか、それを確認する術は残念ながら彼ら兄弟にはない。通信はおろか、文字を読み書きすることもなければ、それを届けるといった文化もない。できるのは、髭のある神様に村人と羊すべてが無事であるようにと、今日も祈りを捧げるだけだった。  その髭神様と呼ばれている神像は赤茶けたブロンズ像で、随分と傷んでいる古めかしいものだった。だが、その佇まい凛としており、立ち姿は堂々としていた。しかしその顔立ちは、ここの祖先と呼ぶにはあまりにも風貌が違いすぎた。そのこともあって、村人は祖先ではなく神として崇め祀っていたのだ。  その眼差しを遠くに見据え、右手を水平に差し出し、左手を腰に添えた立像で、足元には『BOYS BE AMBITIOUS』とあった。
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