2 忘れるわけがない

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「何か飲みますか?」 「いえ、大丈夫です。お構いなく」  そう伝えたのだが、ソファまでやってきた由利の手にはシャンパンのグラスが握られていた。それを差し出された杏奈は、頭を下げて受け取った。 「あの……今日はこちらにご宿泊なんですか?」 「お酒を飲んでしまったし、帰るのが少し億劫でね」  由利はスーツの上着を脱ぐと、杏奈が座るソファの背もたれに掛けた。ただ置いただけなのに、どこか威圧感すら感じて体がビクッと震えた。  きっと高校生の時の記憶がそうさせているんだわ--頭に浮かんでくるのは、いつも不愉快そうに吉村を窘める姿だった。 「それで、お話というのは?」  向かいのソファに腰を下ろしながら、由利の視線は杏奈をしっかりと捉え、微動だにしない。彼は私が"あんなにうすい"とからかわれ続けた碓氷杏奈だと気付いていないに違いない。  あの頃の由利は誰とも顔を合わそうとしなかった。だから彼とこんなふうに視線が合う日が来るなんて思いもしなかった。  彼も変わったのだろうか--いや、人はそんな簡単に変われない。私が波風を立てずに生きていきたいと思っているのと同じように、根底にあるものは変わらないはずだ。  今目の前にいる男性は、昔私を傷付けた人物。そして両親から大切な弁当屋を奪った人間なのかもしれない。  杏奈は深呼吸をしてから、由利の目を見てから口を開いた。 「YRグループがショッピングモールの建設計画を進めている、山下にある工場跡地についてです」 「山下……あぁ、元々製菓工場があった場所ですね。何か問題でもありましたか?」  記憶を辿るように目を細める仕草からは、彼がこの件に関与しているかは読めない。 「先日の建設に関する説明会に、私の知り合いが参加したんです。ただそこで示されていた土地が、製菓工場跡地だけでなく、そこに隣接していた土地にまで及んでいたという話を聞きました」 「……それで?」 「はい、隣接していた土地にはわたしの両親が経営していた弁当屋がありました。ただ製菓工場の閉鎖とともに、老朽化を理由に立ち退きを要求されたんです」 「……同時期に、ということでしょうか」  由利に問いかけられ、杏奈は頷いた。 「そうです。両親は新しいアパートが建つという言葉を信じ、立ち退き料が出たこともあり、店を閉じました。今はキッチンカーで弁当販売を続けています。ですがその話を聞いてから、ずっとモヤモヤしたものが心から消えてくれませんでした」 「確かにタイミングが良すぎますね」 「えぇ……だから思ったんです。もしかしてYRグループが……あの土地の所有者と共謀して、両親の大事な店を奪ったんじゃないかって--」  最後の方の言葉が失礼にあたるだろうと覚悟はしていた。証拠もないのに犯人扱いをしているのだから。  しかし杏奈が話し終えてからも、由利は窓の外を見ながら、頭の中で何かを考えているように見えた。
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