2 忘れるわけがない

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「今日はお時間を取っていただき、ありがとうございました。では私はこれで失礼します」  頭を下げた後、急いで入口の方に向かう。そしてドアまであと三十センチほどに迫ったところで、背後から伸びてきた手によって壁に押し付けられてしまった。  由利は杏奈の両手首を掴むと、彼女を自分の方に向き直させる。 「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。それとも早く帰りたい理由でもあるのですか? 碓氷杏奈さん」  息が止まりそうになった。心臓が驚くほどの速さで鼓動を打ち、額には暑さからではない汗を感じる。  由利は杏奈の顎を指で上げさせると、不敵な笑みを浮かべる。 「あの碓氷杏奈さんが、まさかこんなに美人だったとは驚きだな」  その瞬間、杏奈の顔は驚きに歪み、唇をキュッと結んだ。 「いつから……」 「名前を聞いた時にはね。あとはあの唐揚げの匂いだろうな」  杏奈は顔を顰める。唐揚げに何の関係があるのだろう。 「卒業式の日に君が言い放った言葉、覚えているかい? 『あなたたちはきっとすぐに私のこと薄い記憶の中で忘れるでしょうね。でも私はあなたたちのことを一生覚えていてやるわ』って」  それはもう二度と会いたくないあのグループメンバーへの、私なりの本音。そしてある意味呪いを込めた捨てゼリフ。  なんでこの人はそんなことを覚えているのだろう--逃げようとした途端、両手を男の左手に掴まれ、頭の上で壁に押し付けられる。 「もちろん覚えているけど……でもそれは……!」  足の間に由利の膝を押し込まれ、緊張で体が強張った杏奈は身動きが取れなくなる。どうしてスカートなんて履いてきたんだろう--閉じたくても閉じられない足の隙間から、弱気になりかけている感情を暴かれてしまいそうで不安になる。  大学時代に付き合った人はいたけど、社会人になってからは仕事だけに邁進してきた。壁ドンも顎クイも、ましてやこんな体勢になるのも初めての経験で、まさかそれをこの男にされるとは思っていなかった。  様々な意味の緊張感を覚えながらも、自由を奪われたこの状態でこれから何が起きるのか、そしてどうすればいいかいいのかはっきりと決めることが出来ず、杏奈は黙って口を閉ざす。
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