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第二章
川端は、澄ました様子で、部屋に這入ってきた。手を後ろに組んで顎を上げながら、彼は役者を貫徹したのである。柔らかくも確りと張られた彼の躰はみるみる崩れて行き、声にも内声にもしたくないのだろうけれども、『疲れたよ』というふうに聞こえた。『疲れたか』と僕。『風に吹かれれば俺は生き返るはずだ』それなら何故外から戻ってきたのだろう。『暑いから、風もないし、うん』風が無かった、か。僕は窓から半身を出し、外の様子をうかがった。僕らはまだ何も話してはいなかった。「微風が吹いてる」と僕は沈黙を破る。「西瓜が恋しいよ」川端のその言葉から僕は、重さを感じた。人間は例えば西瓜が恋しいよ、などと言う折に限って、重みが増してくるように思う。自分でも訳が分からない事を述べていることは承知している。
「何色の?」
「赤」
「種もいるのか?」
「YES!」
「めやも、だ」
「何の事?」
「さっきの事」
「ふーん。そうだ、冷凍庫みてくる!」
「なあ、ミキシングって大変だな…」
「まあ…うん」
高校一年の夏休み、僕と川端は成田にある彼の母方の実家を訪れていた。彼の祖父は大変な蔵書家で西洋文学なども原文本と翻訳本の両方が揃っているが、翻訳も旧いものが多く、読むのに労した。しかし慣れというものは驚いたもので、一年ほど掛けてやれば問題はなくなったのである。川端は時折書棚から詩の全集を取ってきては朗読した。僕が、はじめてそれを経験したのは中学一年の夏だった。彼はミヒャエル・エンデのはてしない物語を持ってきて、「この文章、好くね!」と言い朗読をはじめた。
「きみは、これから何人もの人にファンタジエンへの道を教えてくれるような気がするな。そうすればその人たちが、ぼくたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。」
僕はその頁を見せてもらい、二、三度読み返した。実際、よく聞き取れなかったのだ。彼はよく吐息混じりの早口になる。
「いいね」
「せやろ」
スイカあたま、と呼んだ日のことは覚えている。小学生になったばかりの頃、これもまた夏の事で、川端の母方の実家でのことだ。新家と古家が玄関脇からのびる廊下を通じて繋がっている。西日の差し込む廊下の奥で、こちらに背を向けて座る川端の祖父、泰三さんの姿があった。川端は小声で、「あれがスイカあたま!」と言った。僕は少し笑って仕舞った。
川端の家にはYAMAHAのアップライトピアノがあった。僕は時折それを使わせてもらえる機会を与えられた。
「ピアノ弾けるの?」
僕は、全然と応えた。
鍵盤を幾つか押すと、じわーっとした響きが起ち上がる。鍵盤は重く、指に纏わり付いた。
そして何れピアノの事は忘れられ、川端はギターを手に取った。よくエレキギターで弾き語りをしてくれた。
「今度、圭悟のピアノも入れようぜ」
「楽譜が読めない」
「音感でやれよ、それで良い!何曲か録ろう」
「音感…」
「ベースとドラムが居ないな」
「僕、叩けるけど」
「いや、セッションでやりたい」
「なるほど…」
「うん」
しかし録音は成されないまま時間は経ってしまった。
圭悟は冷凍庫の引き出しを開けた。ギーッという音が彼を不安にさせた。何処にも不安になる事など無いのに。そして暫く微動だもせずにいたのだ。裸足の足下は冷えていった。
はてしない物語のあの名台詞を読んでいると泰三さんがぼくらの居る「書庫」にやって来た。その時僕は初めて彼の前姿をみた。
「ヒロ、おお、居たか」
「そういえば初めてだよね顔をあわせるの。あ…こいつが圭悟」
「そうか!いつもありがとね」
─「こちらこそお邪魔してます」
「何、読んでる?」
「ミヒャエル・エンデ」
「はてしない物語かあ。なにそこが良いの?」
「良い文章だよね」─「うん」
「何も小説の世界が壊れるんじゃない、壊れるのは何時も人間の側だね…」
「人間の側かあ…」
「そういえば、何しに来たっけ…そうだ!」そういうと泰三さんは、書棚から本を取り出してきた。
「何の本?」
「ヴァージニア・ウルフの灯台へ、だよ。このコバルトブルー、綺麗だろ。この前買ったんだよ。それじゃ、邪魔したね!」
扉はゆっくりと閉められた。窓からは少し強い風が入ってきた。或る七月の終わりの16時半、いつも決まって涼しい風が吹いた。ぼくらは持っていた本を湿らせている。不意に僕の頭には、スイカあたま、という言葉が浮かんでしまった。
「ドラム、デキる方います?」
川端は軽音部員たちに対して、釈迦に説法とも云うべきことをした。
「ドラムなら僕ですけど」
「できますか!良かった、明日の放課後にまた来ます。その時に少し話しがあるので。それでは!因みにベースは?」
「もう引退しましたよ」
「なるほど、え!居ない?」
「はい」
「分かりました。では…」
僕は昇降口前で川端に呼び止められた。
「あとはベース」
「うーん」
「何曲くらいだろ…」
「8曲は欲しい」
「少し多くないか?」
「どうせ録るなら其れくらいはやりたい…」
「まあ…そうだ!井坂利哉の新作、読んだか?」
「読んでない。どうだった?」
「ほうじ茶」
「ん?」
「ほうじ茶だよ、冒頭から文章が上手くてびっくりした!井坂作品では個人的に、一番好きかも知れん…」
「ほお…積ん読のままだ」
「買ってたのか」
「うん」
そうだ、ほうじ茶はあったかな…
圭悟は冷蔵庫を見渡したが、それは無かった。
僕の返答のあと暫く、沈黙したままの状態が続いた。校門を出て直ぐ先にある信号を渡ろうとしたとき、緑色の自転車が見えた。僕はしばらく目が離せなかった。その日は暑過ぎず涼し過ぎず、風が少し許り強い日だったと思う。
「はい、スイカバー!」
「ありがたい」
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