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第三章
列が空いてきた。圭悟はリュックから静かに本を取り出し、ときの訪れに微笑んだ。立ち上がろうとしたが足がしびれて感覚がなかった。つらい、しかし、ここで足を動かさねば。またも微音にこだわりながら足を床にたたきつけた。歩き始めた圭悟の頭には、ナポレオンの肖像が浮かんでいた。理由は分からない。 数分後、井坂さんの前まできた。他人がちかいという感覚は通学の電車でいやほど味わってはいるが、見るというのは偶にしかなかった気がする。白髪交じりの髪。マジックペンのにおい、黒色なのにどこか朱色や黄色のそれ。白ワインの香り。
これらは皆、ほうじ茶の素材なのだ。「君、学生?」
「あっ、はい」
「YouTubeで配信してるけど、顔出しとか大丈夫?そこでいいか!」
「大丈夫です」
「名前とか入れます?」
「いいえ、サインだけで」
「だけで、オッケー」
「高校生?」
「はい」
「何年生?」
「一年です」
「おお、そうなんだ、じゃあ家の娘と同じだ。アトスに高校生…居る?君くらいか!」
「はぁ」
「はは、名前なんていうの」
「坂口圭悟です」
「なんか文章書いてる?」
「絵を描いてます」
「ん、絵なんだ。見るからに作家の名前だからねえ。ごめんね」
「まあ、はい…」
「じぁあこれ」
「ありがとうございます」
「はい…」
井坂利哉という文字は崩れにくずれ何がなんだか判然としないものだった。「もういません?サイン」と井坂さんは呼びかけた。以後しばらくは列が出来なかった。
「バンドをやっている人間とは思えない事をいうとね、偶に、エレキギターのあの重厚な音が音楽に成っている、ということが不思議でたまらなくなるの。シラフになることがある。あなたはそんなこと感じたことある?」
「無いことはない。しょっちゅうではないけど…」
「そうなんだ」
圭悟が戻ってくるとそんな会話が聞こえてきた。
本棚に置かれたテディベアがこちらを見ている。たまにはテディベアの目線になるのも悪くない気がした。ぼくはダサい。いつも猫背であることが気懸かりだった。ピアノは多少弾ける。しかし、グレン・グールドの様には弾けない。ぼくはダサい、君の巻くマフラーを羨むほどに。ビートルズのメンバーたちがマフラーを巻いている写真を見たことがある。テディベアがしているのは、そんな感じのマフラーだった。いかん、いかん、ビートルズとはしばらく距離をおく、というのを忘れるところだった。君は不意にハローという、ぼくはグッバイ、そうさ、そうだとも。米文学的な響き、きらいじゃない響き。 突然、ウィリアム・フォークナーの八月の光を読みたくなった。僕が持っているのは、一九六七年に邦訳された初版本。もしやと思い、持ってきている、という一縷の望みを掲げポケットを確かめたが、落胆した。ボロボロの背表紙。
ぼくはいつも脆い本を買う。
ベイジュ色をした本を手に取る。
図書館に行って書棚から取り出して幾十年を経たにしては新しさの残る処をみると、なんだかな、と思ってしまう。いつの間にか、僕は、なんだかなが口癖になった。
エレベーターから降りてきたのは、椎名さんとその面持ちがどこかポール・オースターに似た男性だった。紅茶という言葉が浮かぶ。
「カフェの方でなくてすいません」
「いえいえ、あの店のラーメンは美味しい。それでは私は少しコーヒーを飲んでから行きます」
「ありがとうございました」
しかし、なぜ紅茶でなくてはならなかったのか。
圭悟はコーヒーを飲んだ。そこでラーメンの味を探る、けれども感じたのは、苦さのみだった。ペットボトルのコーヒーの、後に残る何ともいえない感覚。それは、良かれ悪かれなもの。良かれ悪かれ。 鼻から抜けるコーヒーの匂いを思う度に、ぼくは何故か恥ずかしくなった。そして、また、草むしりでもするようにコーヒーを口に注ぐ。恥ずかしさの種を撒いても水遣りをしなければ良いだけのことなのに。ぼくは、与えてしまう。ボーボーに伸びて行く。 後には、刈り終えた許りの青臭いかおりがする。
河上さんが「椎名さん来た!」と言った。張りはあるが何処か籠もった声でだ。
「遅くなってすいません、一応ぼくの教え子たちを連れてきいるんですよ。あそこの四人です」
「あー、どうも」
「彼らバンドも組んでるんですよ」
「最近バンドやってる子多いですよね 。サークルですか」
「いや、サークルではないんです。確か、そうだっけ」──「ああ、はい」「サークルとか入ってないの」──「はい、何にも入ってないです。ロックバンドです」
「あれねえ、ロックバンドですって言ってみたいんですよ」
「若いですね…」──「はは…」
ぼくは1階に降りラーメンを食べることにした。18:30。今日の夕飯は醤油ラーメンだ。
「この塩気と柔らかめの麺、良いわね!」
カウンターの中央に座っている、多分、40代くらい夫婦なのだろう、女性の方がそう言った。
『そうか…』
店の奥には古いCDプレイヤーが置かれている、何製から分からない。上から紙テープを貼ってしまっている。多分、日本のメーカだ。ぼくは一瞬、オーディオが揺れる夢を見た。ぼくの中で音は生き返る。東京に似合った音、ひんやりとした音。ずっと遠く。ぼくは歩く、歩いている。 オーディオのサラサラとした表面の質感が、ぼくを、そうさせた。
それにしても明日のライブ、私も歌う事になっている。椎名先生の息子さんが経営するライブバーで。あの場所は、どこか落ち着く。あの場所でベースを弾ている感覚と自分の部屋で弾いている感覚は、どこか似ていると思う。少し暗いからかな。少し明るいからかな。それぞれに落ち着く場所がある。彼女は目を閉じ薄明かりの灯る処を思い描いていた。
『何が分かったんだろ。目を閉じると言葉は浮かぶ。言葉は…』
圭悟は微笑んだ。いつの間にか微笑んでいた。彼は時折思い出してしまう。風の強い日、緑色の自転車で颯爽と髪を靡かせながら去って行く女性の事を。彼はあの時後ろに居た人達から連想をしていたのだった。
『ぼくは何故、耳を傾けてしまうのだろう。』
ラーメン屋の店内の明るさが、外の暗さを忘れさせる。いや、それは違和感がなくなる、といった方が良いのかも知れない。
圭悟の前に醤油ラーメンが運ばれてきた。先ずは、冷たい水を飲む。 温度が戻されて行く。熱すぎず寒すぎない。心地よかった。
『このラーメンは、よく出来ている。』 頭に何かが浮かんだ気がした。けれども掴めなかった。悠邈へと消えていく。ここではない何処かへ、と。ラーメンから立ち上る湯気が、ぼくの胸を締め付けたように思う。煙のようだ、という表現があるけれども、それとは違う。 掴めない。 会場に戻ると椎名さんと河上さんの雑談が既に始まっていた。
「そういえば、椎名さんのTwitterを見ていると、ペチュニアの写真をよく投稿しているのを見るんですけど。ペチュニア、好きなんですか?」
「別段、好きという事ではないですね。小さい頃から好く思っていた花である事はたしかですけど…」
「今度、なんかエッセイをだされるって聞いたのですが」
「ええ、確かね、一部はもう無料で公開されていると思うんですよ」
「え!そうなんですか…」
「はい、多分…。ああ、これですね」
「へえー。丁度ペチュニアについて書いてあるじゃないですか」
「偶然ですね」
「ぼくにとって、ペチュニアの咲く時期は、どこか特別なものだった。ぼくの友人であった、小説家の宮倉薫、そしてぼく自身が心を寄せていた人。その人達を思い出す時間だ。ペチュニアの花言葉には追憶や心の安らぎ、などがある。そんな事はどうでもいいのだ。 このエッセイは、ぼくにとってのノスタルジアだ。宮倉氏の作品を引き継いだ時、自分とは何か、についてよく悩んでいた。自分とは何だろう。なぜ、椎名という男は宮倉にはなれないのだろう。完全なその人にはなれないとしても、ぼくは彼を引き受ける事が出来る。宮倉になれない!お前は宮倉じゃない!批評家はそのようにして、ぼくを蔑んだ。それはおそらく、君たちが宮倉という虚像を望んでいるというだけのことだろう。今日、インターネット上には、ヘイトスピーチが遍満している。それらを、事実だろ!文句でもあるのか、と言わんばかりに書き連ねている。皆、自分が傷つきたくはないから、傷つけ合うのだ。傷つく事などどこにもないのに。ぼくは、人間が好きだ。でも人間の先のようなところは心の底から軽蔑している、大嫌いだ。しかし、そういう処も含めて、人間が好きなのである。こういう事を書くと、また叫かれそうだが、もうそこそこ歳だ。このくらいは記しても構わないだろう。少し長くなるかも知れない。まあ、ジジイの空言だと思って貰えれば幸いである。そういうお歳頃なのだ、と。
いずれ乗ることも無くなった自転車が横たわっている。頑丈なんだよ、あれは。四月も終わる、その日は温暖でぼくの着ていた紺色のシャツは熱を帯びていた。書くことは以上だ、といったら怒られるので、その場面にぴったりな音楽のことを言おうか、と思う。気に入らなければ、閉じてくださって構わない。ちょうどあの時はノスタルジアの発売日で、ぼくも近くの書店を覗き込んでみた。そうしたら、多分、高校生なのだろうけどぼくの本が置いてある棚を見てこう言ったんだ。
「作家って偶にこういうことするよな」
手に取ってくれるかな、と思ったが彼は本を眺めながら溜息をついて、レジに向かった。手には思考力云々や君の死がどうたら、といった宣伝文句の付いた類いを抱えていた。なるほどな、とぼくは色々と思った。ぼくは信じている。 ぼくは、その帰りに偶には外食をしようと思って、近くのラーメン屋に這入った。その時いつ振りかは忘れたが店主は確か、ブリティッシュロックが好きな人だったのを思い出した。ここの醤油ラーメンは美味い。というわけで、醤油ラーメンを頼んだ。麺が適度に柔らかい、それが塩気とよくあう。店にはぼくの他に二人の男性客がいた。一人は一番奥に、もう一人は、ぼくから右側へ二席離れた処に座っていた。
「そうそう、この間、新しいCDを買ったんですよ。」
店主がそう言った。
「新しいCDですか…」
右側の男が応えた。
「これです。マイク・ノックって人の…」
「聴けるかな…」
「ええ、さっそく。」
そういうと、店主はCDプレイヤーを起動させてた。
「カリフォルニア・カントリー・ソングってやつを流しましょう」
「うん、どうぞ!」
麺が柔らかいとつい多く運びたくなる。店主がプレイヤーの再生ボタンを押すのと同時に、ぼくは、水を口内へ流し入れた。咀嚼したラーメンを飲み込んだら歯を食いしばった。熱くなるのを感じ取ったのだ。涙が出そうだったが、結局は出なかった。スープを飲む、飲んでばかりだ。
食べ終えたら、すばやく店を出た。すると、奥の客の事が気になった。なぜだろうか。作家とは水のようなものだ、あんなこともこんなこともそんなこともする。人はそう、どうにでもなる。ならないこともある。
No need to hurry. No need to sparkle. No need to be anybody but oneself.
それにしても、今日もラーメンは美味いのだ。」
「じゃあ皆さん、椎名さんのエッセイもよろしくお願いしますね!」
「ありがとうございます」
「これ期間限定の公開ですよね」
「いや、ぼくも其所までは把握していませんので…」
「あ!井坂さん、サイン終わりました?」
「ええ、何とかあそこまで、いやお久し振りです、椎名さん」
「何年ぶりだっけ」
「多分、6年とかじゃないですかね。SNSでは何時もやりとりしているんですけど…」
「そうですね。はは…」
男達は段ボールで拵えた「猛者の会」と記してある看板を掲げた。
「恥ずかしいんだけど…」
「まあ、ええやん」
「何が?」
「ロックンロール!」
「絶対に違う!」
「猛者の会ってなんです?」
「猛者なんてのは後からいうもんです」「言いたいばかりですよ、若い者は!」
看板を掲げていた男は、聞こえないフリをしていた。圭悟はその様子を面白く思った。そのうち、彼らのひとりが、圭悟の方に目をやった。彼の口元も笑った。 圭悟がスマホを開いてみると、通知が入っていた。川端からだった。内容は、アトスにいるのなら本を買ってきてくれ、とのことだった。しかし先ほど、ラーメンを食べてしまった。一応、計算はしてみた。交通費を引いてみても、足りないことはなかった。というわけで、買った。三千円が消えた。
一晩をカフェで過ごす訳にいかなかったので、圭悟は其所を後にした。時刻は21時15分で、駅まで歩くことを考えれば丁度いい、と思った。 彼は、何かを忘れている気がした。しかし、中々思い出せない。思い出すことなど無いのではないか、と一旦、割り切った。割り切る事は好きではない。胸焼けのようなものは、圭悟の足取りを不安定なものにさせた。蜘蛛の巣みたいだ、張り付いている。
微熱のようなものが圭悟を包む。 何処か遠くにいるんだ。それがどうしたというのか。多分、どこかの森か砂漠にいる。そこでただ突っ立っているんだ。 ぼくは現に此所に居て、五反田駅まで歩いているのに、どこにも居ないような気がした。さみしかった。何がだろう。
「あの野郎がな、全部取っちまったんだよ。もう死にたい」
彼女はそう言った。しかし、結局は生きたいのだ。
「どうしたの?立てる?ほら杖を使いなよ」
「杖じゃないよ、紐」
「紐ってなに?」
叔母がぼくにそう訊ねた。ぼくは首の周りで腕を幾度か回し、祖母の企みを伝えた。叔母は苦い顔をした。
「何も無くなりはしないよ、安心しなよ」
ぼくは幾度かそう言った。
祖母は認知症が進むにつれて、返答をしなくなった。暇さえあれば南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、と唱えている。これについてはどうにも出来ない。
彼女がまだ明瞭であった頃に、ぼくは、信仰とは怖いものだと言ったことがある。彼女は、罰当たりだ、とぼくを叱った。罰当たり、か。確かにぼくは軽薄であったが、罰当たりとはなんだろうか。それが未だに気に掛かる。罰当たり、というものを生み出す生の在り方が、確かに僕等人間なのだな、と最近になって少し分かった気がする。気がするだけだが。無論、罰など当たりはしない。でも、そうい生き方をしなければならないのが、人間なのではないだろうか。
彼女は黙ったままだ。「安心しなさい、自分で息を荒立てる必要はない。君だって落ち着きたいんでしょ。厭なことはしたくない筈だろう。人間は、誰だって落ち着きたいものだよ。あんまり急ぎなさんな。急がなくても良いんだよ。先ずは座りなよ。座んなよ。」
叔母とぼくとで祖母を落ち着かせた。多分、1時間ほどを要したと思う。ぼくは、前よりも穏やかな気持ちになっていて、自分でも驚いてしまった。
ぼくは帰りの電車の中で、あの夜の事を思い出していた。なにも好きで思い返しているのではない。浮かんできて仕舞ったのだから仕方がない。ぼくはLINEの通知を確かめたが、何も動いてはいない。少し安心した。
電車に乗っても、ぼくは、敢えて立ったままでいた。そして君を探した。似ている人を何人かみた。君かも知れない、と思っても、矢張り人違いだった。ぼくは黙って、いつもの通り、ズボンの右ポケットから文庫本を取り出して、適当な頁を読み始めた。読み始めると意外にも没頭してしまうものである。君の笑顔を見たことがない気がする。それでも、君の小さな目は、とてもやさしく、綺麗だった。君は笑うのだろうか。勿論、笑うのだと思う。若しかしたら、笑えないのかも知れないけれども。きっと何処かで君は笑顔になっている。それ以上、何かを言ってしまったら、いけない気がした。あの夜も君のことを思いだした。ぼくの心配性な性格では、祖母に掛ける言葉にも検閲が過ぎていたのかも知れない。自然に出て来た、勿論多少の吟味はあったが。 ぼくは事が済むと、絵を描きはじめた。それでも何も浮かばない。紙には線が幾つか引いてあるだけだ。しかし、引こうと思って引いたものではない。これでは、拉致があかないので、その日は早く寝ることにした。
ぼくは、殆どだれも乗っていない車内で、少し身体を縮こませた。多分、次の駅では大いに人が乗り込んでくるのだろう。いつの間にか、ぼくを包んでいた微熱は去っていた。多分、飽きをきたしたのだろう。
冷房が効いている所為で少し寒かった。それでも、風邪をひく程ではない。ぼくは爆発しない。そうさ、そうだとも。
圭悟はその芝居じみた感じを心地よく思っていた。
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