第四章

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第四章

 市原には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風が、机に向かうぼくのかいた汗を冷やす。その晩は眠れそうになかったので、古典の授業で出された課題を終わらせようと思い立った。その課題には、芭蕉が「終夜嵐に波を運ばせて月をたれたる汐越の松」という蓮如の歌を読んで、「此一首にて、数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。」と言った処が含まれていた。芭蕉は、これを西行の歌と思って読んだのだろう。しかしそれならそれで良い。彼は間違っていた、と言っても何の意味は無い。ぼくのこういう口調も川端に影響されたのだと思う。学生批評家の類には嫌われるのだろうけれども。まあ、それならそれで構わなかった。 無用の指。 あまりに寿司詰めのようなものでは窒息してしまうから、気を付けなくてはいけない。だからといって息をしていない訳では無い。川端はそう言った。帰りのバスの中で、外の空気を受けていると、ぼくの右頬には、雨粒が落ちてきた。大して降らないだろうと思っていたが、次第に激しくなってきて、とうとう窓を閉めた。今日、雨が降るなんて言ってたかな、とぼくが言うと、此所は振るってよ、と川端が言った。 「お前、自分の地元の天気を見てたろ」「うん…」 「それにしても暑いな」 「33度か…」 「そうか、そんな季節になったのか」 「うん…」 「そうだ、今日は、金曜日だろ。ライブハウスでも行ってみるか」 「いきなりどうした?」 「いや別に、偶には、と思って」 「偶には…」 「ANGAってところなんだけど」 「何所にあるの」 「千葉駅の近くだよ。お前、今日大丈夫か?」 「うん」 「なら決まり」  ぼくらは何時もの通り、千葉駅の東口に降りて、薄暗い街を、ガタンゴトンという音を傍らに聴きながら、足早に移動した。川端の足取りは速さを増していった。そして、周囲に誰もいない事を確認すると、疲れたよ、と呟いた。その声は程々に低く、一見、川端の声とは思えなかった。どこか角が取れているような声。 「そういえば、村上春樹が新しく長編を出したろ。川端は読んだ?」 「読んでない。来年になったら読むよ」「来年?」 「来年だ」  少し明るいところへ出た。川端の表情は、笑っているようで、不安なようで、幾度となく入れ替わっていった。 「あそこだよ」 「あれなんだ」 「うん」  暫くしてぼくらは、店の前まで来た。扉にはコラージュのように色々と貼り付けてある。ぼくが偶々目にしたのは、ロベルト・シューマンがローレンスという画家に頼んで描かせたという、まだ二十歳であったブラームスの肖像画だった。川端はコラージュには目もくれず、扉を開けて中に這入って行く、ぼくもゆっくりと後に続いた。川端は店主に挨拶した。店主の面持ちには、銀河帝国の興亡を書いた人のようなところがあった。店内を見回すと、壁にはその人の写真が掛けられていた。ぼくは、成る程なと思った。思っただけだ。   ステージから遠いところに居よう、と川端は言った。ぼくが何故かと問うと、彼は、耳が壊れるからだ、と言った。しかし、彼は嘘を言っている。彼のヘッドホンからはいつも、大音量の音楽が鳴っているのだから。せめて疾うの昔に壊れているのに違いなかった。   左手にアコースティックギターを持った女性がステージに上がった。ぼくは、誰かに似ているな、と思った。人が多くて顔がよく見えない。ぼくは川端に、彼女、誰かに似てないか、と問いかけた。Aさんだよ、と彼は言った。ぼくは驚いた。驚くほかにする事が無かった。  彼女の声がスピーカー越しに大きく聞こえる。その声をこれほど判然と聞いたのは初めてだと思う。Aさんは、ダージリンティーを一口飲んで、今日は一曲だけですがよろしくお願いします、と言ってステージに置かれた椅子に座った。暫くして、ギターの音がツツツと鳴り始めた。彼女は、カネコアヤノの「予感」を歌い出した。依然として彼女の顔は見えない。それでも、歌っているな、と感じた。ぼくは下を向いていた。振り向くと、川端も下を向いていた。 「良い歌詞だよな」川端が言った。 「うん」ぼくの返答は少し上の空だった。  彼女が歌い終えると観客等は拍手を送った。彼女は程々に頭を下げ、ステージから足早に降りていった。次にステージを占めたのは、何処かの大学の軽音部だった。 「そういえばお前、ここに来たのって、何回目?」とぼくは川端に尋ねた。 「多分、9回目じゃないかな」 「そうなのか…」 「もう出よう」 「もう行くのか?」 「うん。もう良い」 「じゃあ、行くか」  ぼくらは一杯の水も頼まずにライブハウスを後にした。 「Aさん、今日もありがとうね」 「こちらこそ、ありがとうございます」 「そうだ、さっき、同じ制服の子達が奥に居たけど、知り合いかな」 「私には見えてません…」 「そうか…。じゃあ、また来週ね」 「ええ。それでは…」  雨が止んでいる。今日はベースではないから、普段より移動が楽だった。 『あの軽音部の人達、本当にレッチリが好きなんだ。あんな音楽の何が良いんだろう。それにしても、同じ学校に通う人に見られたと思うと途轍もなく恥ずかしかった。あの人たちは、バンド音楽には興味無いと思っていた。興味、あったのかな。ボカロとアイドルソングしか聴かないような感じだけど。自分でも濁しているのは分かってる。これ以上、何も考えたくない。矢っ張り、恥ずかしかった』  川端の足取りはまた早かった。しかし今度は、すぐに遅くなって、時折脇道を覗き込んだりしていた。そして深い溜息をついた。女の声が聞こえないか、と川端はぼくに訊いてきた。ぼくは聞こえない、と言った。暫く進んで、また彼は後ろを振り返った。 「ぼくの頭はおかしいんだ。分かっているのに振り返ってしまう」 「どうしたんだ」 「先週末に診断を受けたんだ。ぼくは統合失調症だ」 「本当なのか」 「うん。環境音が人の声に変換されてしまう。聴いている音楽の曖昧な音量のドラムスでさえ、そうなんだ…」 「だから、大音量で聴いているのか」「うん。あとは、幻聴が聞こえないように。監視カメラみたいだよ。いちいち、人の行動に口出しする」 「薬は?」 「飲んでない。なんかさ、誰も居ない場所に行きたい。でもそれはそれで怖いんだよ」 「どんな場所?」 「だだっ広い草原。そこでただ、風にあたっていたい」 「女の声なのか?」 「大抵はね。偶に違うこともあるけど」「今は、どう?聞こえるのか?」 「何か言ってる。でもさっきよりマシになった」 「そうか」 「診断されたのは良いけど、そうなると逆に本当かと思ってしまう。お前に確認したのもそのためなんだ」 「どんな声なの?」 「小、中学校の同級生だと思う。あいつら俺が笑ったり話したりすると、川端くんが笑った!と言うから、自分の中ではトラウマなんだ。最近、あらためてそう思ったよ」 「確かに、言ってたな」 「俺が笑ったから何だって言うんだ。馬鹿め。まあ、もう良いのだけれど」 「その内何とかなるのかな。そんなこと言って良いのか、あれだけど…」 「何とかなる筈だ。多分ね。お前に話して良かったよ」 「何で?」 「そうだな、小川に足を浸しているみたいだから」 「どういうこと」 「まあ、それは俺の感覚なだけなのだが。普遍的な処では、曖昧だからだ。拗らせもせず返って鈍感でもない。お前もそのくらいは自負しているだろ」 「偶にね」 「それで良いよ。偶にくらいが丁度良い」 「そうだな…。お前、近々、三島を読んだな」 「バレたか!」 「いや、連想だよ。ぼくも、今、金閣寺を読んでる」 「そういえば、文學界の新人賞、高校生らしい。三島みたいだとさ。俺は好かんね」 「なんで俺らこんなに堅苦しい話し方をしているんだろ」 「まあ、そういう年頃ってやつじゃね」「ぼくらは生意気だよ」 二人は笑った。「普段は大人しいのだし、ええやろ」 「一円玉ってよく落ちてるよな」 「まあ…」  そうこう話している内に二人は駅へ戻って来た。そうして何とか、四番ホームに停車中だった、上総湊行きの各駅停車に間に合った。普段よりも人数の少ない車内で、川端はゆっくりと微笑んでいた。不気味な落ち着き方をしている。圭悟は蟠りを抱える羽目になった。何かが分からないのだ。畢竟、気を逸らす他なかった。  暫くして川端は居眠りした。  ぼくは左側の扉近くに立っていて、ただ、右側の車窓を眺めていた。そうしてまた、Aさんのことを思い出した。暫くしてぼくも居眠りをはじめた。時々開いてしまう瞼が嫌になった。  ぼくはダサい。君のしっかりと閉じられた瞼を羨む程に。  結局、アルバムの制作は頓挫したままになった。そしてついに再開されることは無かった。  授業で出された課題も終わった。その夜は、割合によく眠れそうな気がした。  八月二十六日の夜、ぼくは椎名さんのSNSを見ていた。 「やっぱりビールは良いね。」 「自分の頭で考えない者は、ある人がどのように考えるかではなく、どのような考えの陣営に属するかで人を判断する。」 「振ると面食らう、で良いのですよ。」 「世界、暑すぎないか?」  彼の断片的な投稿は、後で、ブログ記事のアウトラインとして機能する。彼の投稿の中には、一枚の写真があった。そこには、午前七時を指す掛け時計を抱えた河上さんと、椎名さんの教え子たち、そして随分眠たそうな井坂さんが映っていた。しかし学生全員が映っている訳では無かった。ベーシストの女性と、男性があとひとり映っていなかった。あの時に微笑んでいた男性だ。写真に映っていた学生のひとりが、外方を向いている。多分、あとの二人を見ているのだろう。ぼくはそう思った。外方を向いている彼だけが霞んで見えた。目線の先に居るであろう二人と同様。目線の先に居るであろう彼女も、また、彼の方を向いているのかも知れない。ぼくはAさんのことを思い浮かべた。風の中にいる彼女のこと。あの日から風というものがぼくの裡で、特別なものとして扱われた。人間のそのような処はおもしろい。おもしろいと言っているうちは、ぼくはただの馬鹿だ。鳥の囀る頃になっても尚センチメンタルを追いやれない心持は、生産的な日常への隘路となるばかりであった。ぼくが馬鹿者な所以が、そこにもあった。  静かな会場にエレベーターの音が送り出される。ぼくはそれを聴いた。  華やかな香りの漂う会場に、忘れられていた薄いコーヒーの匂いが、また浸食して行く。大して響きも籠りもしないもので構成されている場所。それが返って良かったのだと思う。      プラットホームに降りた時には既に、各駅停車は出発していた。私はSNSを確認しながら、次の総武線快速を待った。暫くして運転見合わせのアナウンスがはいった。途中、異音がしたらしい。私は少し倦んでしまって、屋根の隙間から覗く曇った空を見上げた。駅の向かいに建つマンションの、ベランダに置いてある濡れた植木鉢が、その折は少し暑く思っていてので、そのような私の心境を癒してくれた。                         
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