第五章

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第五章

 8月29日、火曜日、夜。  僕にとって、近所にある建売住宅の玄関灯を眺めることは、訳もわからず停滞している気持ちを切り替えるのには、効果的だった。暫くして、ふと、小説を書こう、と思い至った。ブログを更新しよう、と思った。      『502』椎名  尚紀 著  私はサラサラな地面を歩いている。  喉が渇いた。回送のバスが通り過ぎて行った。きたない窓ガラス。綺麗なテールランプ。散々な異臭。平然と歩く幾人かの他者。また、私に、カメラが向けられる。街中で頬を打つことは出来ないから、少し伸び過ぎていた右手の爪を、掌に食い込ませた。痛かった。けれども、直ぐに消えた。暑かった。暑かった? 確かにそうだった。私の身体は感じていた筈。  立ち止まって少し先にある、コンビニの方を見た。店の前には横断歩道があり、そこを渡ろうとしている女性がいる。彼女はバス停へ走った。そうして、バス停に着いたら、携帯電話を取り出した。時計でもみているのか。  コカ・コーラの匂いがする。  暫くして、彼女と目があった。私の前には背の高い男性が立っていた。コーラを飲んでいたのは、彼だった。私は後ろを一瞥して、別段何とも思わずに、また彼女の方を向いた。彼女とは目があった儘だ。暫くして、彼女が乗るかも知れないバスに視線を移した。私は、唾を飲んだ。また、コーラの匂いがする。今度は、さっきよりも煩い。私は、もう一度後ろを一瞥する。そこには、カフェがあった。だらだらとした時間が流れている。だらだらとした笑みで占められている。  今日は、白いTシャツを着ている。他の色のものを着ている時より、居心地が良かった。口元を少しだけ動かして、別に詳しくは言わないけど、私は、また歩き始めた。  ブログで小説を書くのは、初めてな気がする。今回、推敲はしなかった。それもはじめてな気がする。悪くないな、と思った。このまま、無料で公開する。  そろそろ、お腹が空いた。  ぼくは椎名さんのSNSに目を通していた。その日の第一声は、「辛い麻婆豆腐」だった。 「小さいものですけれど、小説を書きました。ブログで公開します。無料ですよ。」  これは読まねば!  その晩、ぼくは、ベッドから落ちた。寝落ちしていたあげく、スマートフォンのバッテリー残量も残り僅かになったいた。充電器は妹が持っている。仕方がないから、取りに行った。面倒くさい。 時計は見ていなかったから、時刻は分からない。それでも、ぼくは、直ぐにまた、眠りに着いたのだった。別段、疲れてはいなかったのだけれども。  午前三時、ぼくは、部屋から出て、ギーギーとなるドアを閉めた。窓が開いていたために、勢いよく閉まった。誰も起きる気配はない、聾ばかりで良かったと、その時分は思った。  深緑色のTシャツと黒色のズボン。穴の開いたAdidasの靴。シルバーのCasio製のデジタルカメラ。ぼくは、それらだけを身に着けて、散歩に出かけた。  玄関先に出て、東の空を見た。その流れに沿って、家の方をみた。自分の部屋の窓に設けてある簾が、幾度かの大型台風の所為もあり、ボロボロになっていた。触ると痛そうだ。汚れそうだ。ぼくは、半ばの、意識と無意識とで、黒いズボンを用い想像上の手汗を拭った。それでも脂は確かに拭われていた。  家の近くにある古墳の辺りを歩いていると、白いペチュニアが咲いていた。暁暗の折、草の緑ばかり浮遊しているなかで、花はしっかりとそこにあった。ぼくは、デジカメで写真を一枚だけ撮り、スケッチを始めた。   暫くして、腕時計をみた。午前四時を迎える(きわ)にあった。向こうから自転車の錆びたチェーンが動く音がしてきて、ぼくは、振り向いた。自転車に乗っていたのは、ここから三㎞ほど先の隣町との境に住む、萩原さんという老夫だった。彼は、いつも、ふらふらと近づくいて来ると、「よう!」と声をかけてくる。 「よう!おはよう。坂口さんのとこのせがれさんだろ。早いねえ」 「おはようございます」 「何描いてるの?」 「このペチュニアです。一応、写真も」「へえ..。それにしても久し振りだね。お祖母さん元気にしてる?」 「ええ」 「今、高校生?」 「ああ、はい、二年生です」 「そうか!家の孫も、今年、大学に上がったんだよ。どこだっけか、社会学部だとは聞いたけども。それにしても、スケッチ、中々見事じゃない」 「ありがとうございます」 「芸術の方面を目指してるの?」 「いえ、特には…」 「そうか!それじゃあね」 「あ、はい。ありがとうございます」  スケッチを描き終えると、ぼくは、何も考えずに、ふらふらと散歩を続けた。小学校の前の道を歩いていると、三毛猫とすれ違った。猫とは暫くして目があった。あとになって、写真を撮るのを忘れたことに気が付いた。  まあ、良いのだが、と。  川端は少し遅れて展覧会の会場へやって来た。 「すまん、遅れた。ひとつ先のバス停で降りてしまった…。」 「いや、大丈夫。まだ這入れないから」「まだなのか…」 「うん」 「お前、ビートルズ、まだ聴かないつもりか?」 「まあ、なんで?」 「いや、別に…」 「さっき、ザ・スミスを聴いたよ。バスの中で」 「どの曲?」 「Heaven Knows I’m Miserable Now」「いいね!」 「でも、何故にビートルズのことを」「ライブハウスで演奏することにしたんだ。お前もどうだ」 「唐突だな」  午前十時を過ぎ、ぼくらは、会場の中へ這入った。川端は、お前の絵だけ見るよ、と言いぼくも自分の絵を探した。会場の中は暗く、淡く灯っているだけだった。蝋燭の明かりのようだった。ぼくの絵は、会場中腹の一番右側に展示されていた。あの夏の朝と同じように、白いペチュニアは、確かにそこにあった。 「これかあ!」 「うん」 「良いじゃん」 「そう?」 「その位は自負しているだろ」 「まあ」  ぼくらは、暫く、黙って絵を見ていた。暗い会場で、この淡い明かりが、空間の静謐さを引き立てていた。  川端は黙ったままだった。ぼくが彼の方を向くと、彼の左頬は、涙なのか洟なのか、よく分からなかったが、少し許り濡れていた。ぼくは、少し驚いてしまった。けれども、何も問い掛けはしなかった。川端の鼻息が微かに荒くなっているのが伝わってくる。彼は右手で誤魔化すように頬を擦り、もう随分見たから行くか、と言った。ぼくは、うん、とだけ応えて会場を後にした。ぼくは近くのバス停までの道中、川端に、あの絵はどうだったか、と訊いた。彼は、風で揺れている処が良かったと思う、と言った。 「そういえば、タイトルって何なんだ?」 「二月の私」 「ぴったりだと思うよ」 「ぼくもだ」  暫くして、千葉駅行きのバスが、勢いよく到着した。列の長さからして、一応は、座れそうな気がした。  ぼくは、向かい側のバス停に目をやった。すると、緑色の自転車が通り過ぎて行った。ぼくは、目を向けられなかった。あの時のような風が吹いていた。不思議な心地がしている。その道には、アスファルトとコンクリートブロックとの僅かな隙間から出て来て咲いている、白いペチュニアが揺れていた。今年も、既に、ペチュニアの花の咲く時期が来ていた。                                            
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