⑤青史 炎さん

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⑤青史 炎さん

不意に。 梅子が私の隣りに立ち、座らされている私の目線の高さまで腰を落とした。 落ち着いた真剣な眼差。どうされるかと考えると胸が震える。 「大丈夫……怖くないよ。佳純ちゃんに真実を見せてあげるね」 五秒前まで、嵐のごとく荒ぶっていたのが嘘のように、梅子の声には大切な人と離れようとして相手の掌を両手でそっと握るような温度が込められている。 「あの鏡にはね、これまで生きてきた人生を映し出す力があるの。思い出してみて、学校の正門を出てからのことを」 31f2c1db-271c-4189-8d88-fee205ee1ab1 その言葉を聞き終えるか、終えないかで再び意識の暗転が始まり、気がつくと私はいつもの通学路を歩いていた。 下を向き、自分の靴しか見ていない。母が買ってくれた靴には、アホ、帰れ、など油性のマジックで落書きされては、消しても消えきらない跡がうっすらと残っている。 空はグレー色の曇り空で、私が踏みしめているのは輝き。 雪道だった。 左に目を向けると梅園があって、細くうねった黒い枝に一輪、薄紅色の梅花が咲いている。 産まれたての赤ちゃんよりも柔らかいだろうと思える花弁に、この寒い中、健気に生きている姿に、勇気をもらった。 ──可愛いね。私も頑張るからね。一緒に頑張ろうね。 ふと、前を向くと十字路に髪飾りが落ちている。駆け寄り手にした瞬間、空気が揺れた。 顔を上げる間もなく雪でハンドル操作を失った軽自動車と私の距離は、五十センチにも満たなかった。 気がつくと、私は人形に戻っていた。 「そう。それが真実」 じゃあ、私…… 次の言葉を想像するのが怖い。 「大丈夫、佳純ちゃんは生きてるよ。でも、大きな事故だったの。体が治るまでの間、意識を保つために、一時的にでも魂を抜く必要があったの」 梅子の表情は、心なしか母が私に向けるそれと似ている。 「この梅の髪飾りは、あたしのお気に入り。これに佳純ちゃんが触れたから、こうして助けられたの」 助けるため? 私を助けるため? 置かれた状況をゆるやかに理解していくたびに、梅子に抱く感情が少しずつその色を変えていく。 じゃあ、梅園で一輪咲きの薄紅色をした梅花を見たのも、道端に落ちた髪飾りに触ったのも、全ては偶然なんかじゃなくて、今というこの時間を生き延びるために、明日という日を迎えられるように、梅子がなんとかして跳び移れる距離に置いてくれた飛石のようなものなんだ。 きっと……梅子はこれまで自分のためじゃなくって、助けるために人形に魂を入れていたんだ。 でも……どうして?
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