引き換えに

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引き換えに

今まさにひとりの少女が歩道橋から身を投げ捨てんとしたそのときである。やつれ身なりの薄汚れた老婆が少女に声をかけた。 「死ぬ気かい?」 歯はボロボロに抜け落ち浅黒く痩せこけた顔のまるで骸骨のような老婆の声に振り向く少女。 「もうダメなんです」 あらためて歩道橋から身を乗り出す少女に、老婆は続けた。 「本気なら交換しないかい?」 歩道橋から半身乗り出した少女は向き直り老婆に近づいた。何日、いやそれ以上暫く風呂にも入っていないことがすぐに分かる異臭がその老婆から漂っていた。 「交換?」 老婆は少女の目を見て深く頷いた。 「何と交換を?」 老婆の背後には燃えるような夕陽が沈みかけていた。 「小児癌の小さな男の子の僅かな余命とおまえさんのその生命、どうせ捨てるつもりだったんだろう?」 少女は困惑した。この老婆は本気で言っているのだろうか、それとも自分が飛び降りるのを思いとどまらせるための空言か。 「どうするね?ただとは言わん、どうせ使いきれぬ金と一週間の余命をくれてやる、どうだい?」 本当にそんなことができるのか少女は考えるまでもない馬鹿げた話しであった。頭のおかしな年寄りか、しかしもしもこの話しが本当ならばそうすることもやぶさかでないとも思った。 「どうやって?」 老婆は顔色ひとつ変えることなく淡々と言葉を続けた。 「地獄の遣いの私との確約、口約束で成立じゃて、どうかね?」 老婆の背中で燃えるような勢いであった赤い夕陽はもう沈み薄暗い黄昏の風がそっと少女の制服のスカートを揺らした。まだにわかに信じ難い黒髪の美しい少女。じっとその少女の目を見てそらさぬ薄汚れた老婆。沈黙の時間が流れ、そうしているうちに辺りはもう真っ暗であった。秋の日は早く短い。まるで人間の一生のようなものだ。 「どうするね?」 低い声の老婆のその言葉に促され静かに少女は頷いた。 「契約成立じゃて、おまえさんのお生命頂戴」 老婆は目を閉じブツブツと小さく念仏のようなものを唱えた。少女は背中にぞくぞくと悪寒が走るのを覚え、立っているのが精一杯で目の前が緑や紫の色が入れ代わり立ち代わりぐるぐると変化し意識が遠くなりかけたとき老婆は目をいっぱいに見開き最後の喝を入れるような雄叫びをあげると消えてしまった。何かに化かされたのかと少女は思ったのは存外その老婆が消えたところで何も自分に変化が感じられなかったのである。しかし先程の老婆の祈祷のようなものの最中恐ろしく生まれてはじめてあのような強い悪寒や霊気というものを感じたのは事実であった。ふと少女は鞄の中が気になった。そこには見たことの無い自分名義の通帳とキャッシュカードが入っていた。その通帳には数億円の残高がありメモ用紙には暗証番号が書き込まれてあり今日から一週間好きなだけ遣うといい足らなくなれば幾らでも入金する旨の但し書きもあった。まるで目を疑わずにいられずその場に立ち尽くす少女のスマートフォンが着信を告げた。通知の番号が普通の携帯番号より遥かに多いその番号。きっとこの事に関するものだと直感し少女は応答をする。先程消えた老婆の声であった。 もう戻れやしないぞよ、それだけ言っとくでな
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