三月某日

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三月某日

「おーす。お待たせ、お姉ちゃん」 「……遅いよ、『ダイシ様』」  枯れ葉混じりの乾いた風が、煤けた窓をしきりに揺らすから、黄昏時の踊り場は存外騒がしい。茜色の夕陽は、肌寒さを紛らわせるにはやや物足りない。にも関わらず、不思議と心がぽかぽかするのは、彼の息遣いを近くに感じるせいか。階下へ伸びる影は二人分。共犯者特有の距離を保ちつつ、私達は笑い話に興じる。 「悪い悪い。しっかし、あれから一週間も経つのか。出番が来るまで長かったなー」 「仕方ないでしょ? なかなか誘い出せるタイミングが無かったんだもの。三月に入って、活動時間も延びてきたし……でもホラ。念入りに準備したおかげで、ね?」  無愛想におちゃらける「ダイシ様」に、眼下の一点を指し示す。かつて「あの娘」を突き落とした際、廊下はほとばしる血液で悍ましく染められた。幸い彼の機転もあり、シミ一つ残さず清められたが――それが今、再び不浄の赤で塗りたくられている。充満する生臭さは、常人が嗅げば理性を失うほどだ。にも関わらず、ちっとも動揺していない自分に気付き、嫌気が差す。もう戻れない。新たな「私」を演じるしかない。 「いやー、それにしても上手くやったよなー。死体の状態、前回よりずっと良いじゃねーか。服もあんまり乱れてねーし」 「まあね。彼女、練習中は自分の世界に入り込むタイプだから。油断しているところを死角からドン、と。――ひたむきな人を嵌めるのって、結構簡単だよ」 「ヒヒッ! 恐ろしいことを言いやがるぜ。お姉ちゃん、殺し屋の才能があるんじゃねーの?」 「ふふっ。そんなもの授かるくらいなら、役者の才能が欲しかったな」  自分で言っていて悲しくなる。努力が無駄とは思わない。私のような凡人が戦うには、努力が必要不可欠だ。だが、泥と汗にまみれるだけでは、絶対に辿り着けない高みもある。大半の人はこの事実を受け入れ、こぢんまりとした枠の中で生きている。私自身、与えられた役目を果たすだけで、満足できる時期もあった。でも――しょうがないじゃない。素行不良な神様が、気まぐれに微笑んでくれたんだから。 「ところで今更だけど、コイツは一体何者なのさ? 初めて見る顔だがよー、お姉ちゃんとどういう関係?」 「ああ、まだ言ってなかったっけ。彼女はね――次の舞台の『主役』なの」
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