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「ふふっ! ところでセンパイ、覚えてます? 二、三ヶ月前だったか、合同発表会のキャスト決めをした日のこと。……覚えてるわけないか」
鮮紅の舌をダラリと垂らし、執拗に唇を濡らしながら、「後輩」はシニカルな調子で詰め寄ってくる。しみじみと想い出話をしよう、などという雰囲気ではない。緩慢なのに規則的な呼吸が、狩人の硬質さを印象付ける。感情的に喚いたり、官能的に喘いだり、飽くほど奔放に振る舞ってきた彼女が、さらに深層の顔を覗かせようとしている。返事の是非に関わらず、この問答が終わった時、ついに私は仕留められるのだろう。
「ホラ。夏の大会でアタシ、盛大にしくじっちゃったでしょう? 半年以上経った今でも、折に触れて蘇るんです。凍り付いた観客席、仲間が向けてくる非難の眼差し――あの光景を思い出すと、強酸の汗が全身から噴き出て、まともに立っていられなくなる。そんな状態でもう一度舞台に上がるとか、できるわけない。――だからアタシ、春は絶対裏方に回ろうって決めてたんです」
知っている。現実が書き換わるより前、彼女は音響担当だった。会場の音をあまねく制御し、物語に情緒と色彩を与える。華やかに称賛されはしないが、演劇の屋台骨となる立派な仕事だ。理屈では分かっているのだが……それでも本音を言うと、私は彼女の判断を尊重できなかった。
「あーあ、なまじ実力があると厄介ですねえ。『人手足りないからギャグパートやってくれ』? 『数分の出番で済むから』? ……ざっけんなよ、マジでっ! 『キャストだけは死んでもやらない』って言ったのにさあっ! こっちの要求、全部無視しやがって!」
理不尽な「現実」を顧みて、「後輩」は眉を吊り上げ荒ぶりまくる。誂え向きの道筋を否定され、望まぬ記憶を植え付けられた彼女には悪いが――「ダイシ様」による軌道修正は、最善の一手だったと思う。輝かしい未来を簡単に捨て去り、宝石のような才能を腐らせる。いやはや、何と勿体ない。後ろ向きに迷いなき選択は、夢を諦めた凡人達への侮辱だ。私に限らず、他のメンバーも同じ気持ちだったろう。たかだが一度の失敗で折れるだなんて、下衆の戯言に屈するだなんて――
「おかげで毎日地獄だったっつーの! 馬鹿みたいな台詞覚えさせられるし! クソ寒い衣装に着替えさせられるし! ――ガッサガサでカビ臭いウィッグ、被せられるしっ!」
「……え……待って……それは……」
――「馬鹿みたいな台詞」、なるほど理解可能だ。一昔前の電波系を想起させる内容は、ベテランの部員ですら読むのを尻込みするレベルだった。「クソ寒い衣装」、こちらも納得できる。演出上仕方がないとはいえ、季節の変わり目に半袖シャツやミニスカートは厳しい。――「ガッサガサでカビ臭いウィッグ」? そんなものを身に付けるタイミング、一度たりとも無かったはずだが。
おかしい。辻褄が合わない。ウィッグが必要なのはむしろ、「後輩」ではなく共演者の方――私が演じるはずだった役の方なのに。
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