本番直前のある日

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 ――声が、聞こえた。水晶みたいな清純さと、溶岩のような力強さを併せ持つ、素朴な少年らしさを体現した声。凜として響くのに、そこはかとなく頼りない雰囲気なのは、口にした当人が怯えているせいか。踊り場に独り取り残された「ダイシ様」は、痩せっぽちの体躯をこれでもかと反り返らせ、精一杯大人ぶってみせている。けれども目深に被った笠の下、真下から覗いてなお窺えない彼の顔が、恐怖で青ざめているのは明らかだった。 「……もう、勘弁してやってくれ。ここまで散々甚振(いたぶ)ってきてよぉ、いい加減気も済んだだろ? 階段から逆落としにして、メッタメタに傷負わせて、挙句暴言でなじり倒して――この上まだ、辱める必要があるってのか!?」 「はあ? 随分と甘っちょろいこと言うじゃないですか。やけにそわそわしてるし、何をそんな必死になって……あー、はいはい。なるほどね。か」  ガクガクと膝を震わせつつも、なけなしの尊厳を振り絞り、小さな「救世主」は懇願する。しかし、いけずな少女は耳を貸さない。それどころか悪辣に頬を赤らめ、おちゃらけた態度で鼻を鳴らす。無粋な野次は壇上へ届かず、どうやっても劇は止まらない。湿ったらしいモノローグ、彼女の見せ場は終わらない。 「ふふっ! よくよく観察してみれば、アンタら似たもの同士ですねえ。どこかの誰かに期待されて、望みもしないのに担ぎ出されて。どうせなら主役になりたいと意気込んで、なのに自分の役から抜け出せなくて。……究極的にお似合いな二人。横入りする隙がない二人。……妬いちゃいますネエ。壊シタクナッチャイマスネエ」  ――声が、止んだ。太陽みたいに苛烈かと思えば、雨雲のような陰険さも兼ね備えた、無垢な少女らしさからは程遠い声。忙しなく色を移ろわせていたのが、語し進めるうちに精彩を欠き、最後には完全な無個性となった。抑揚も表情も失った「後輩」は、さながらショーウィンドウのマネキン人形だ。喜怒哀楽の仮面を外し、氷点下の眼差しでこちらを見据え、彼女は機械的に問い掛けてくる。 「ねえ、センパイ。アンタ、自分がどんな人生を送ってきたか、この場でパッと振り返れます? 半年以上前の夏大会、きっかり一年前の合同発表会、二年度分の自主公演、新入生歓迎会の初舞台――それぞれの舞台でどんな役を演じてきたか、はっきりと覚えてます?」   「……そんなの……忘れるわけ……え……あれ……嘘……」  ――おかしい。思い出せない。自分が演劇部員として歩んできた道程、確かに存在していたはずの想い出達が、酷くぼやけて霧散していく。断片的になら思い浮かばないこともないが、何と言うべきか――何もかも、他人事のように感じられる。あたかもそれらしく捏造された情景を、後から強引に捻じ込まれたかのように―― 「覚えてないって? そりゃあそうでしょう。なんか、覚えていられるわけもない。たとえ記憶を遡れるにしても、せいぜいここ数ヶ月分くらいでしょうね。作り込まれたバックストーリーなんて、には要らない。何しろアンタは――」 「止めろっ! ……お願いだから止めてくれっ! 知らないままでいた方が、幸せでいられる真実も――」 「何しろアンタは、人間じゃないから。現実改変の副産物、血雪混じりのスワンプマン。無から偶然産み落とされた、人間を演じる一匹の『怪異』。――アンタはアタシので、で、で――ある意味では、『後輩』みたいなモノです」
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