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私は家とは反対の方向に歩いた。始発が動き出したのか、駅のホームには、まばらに人影があった。線路を渡り、疎水に架かる橋の上で立ち止まる。欄干にもたれ、川を見下ろした。
灰色の水は、ぬめりを帯びた光沢を放ち流れてゆく。ぼんやりと映った私の顔も揺れている。落ち葉が流れに騙されたように、くるくるといつまでも同じところを回り続けている。
何重にも扉を作って現実から遠ざかっていたのは私だった。いっぺんに目覚めることは、どうやらできないらしい。
「助けて」
小さく呟いてみる。
「助けて」
今度はもう少し大きな声が出た。
「助けて!」
叫びながら、春奈の爪を放り投げた。
爪は花弁のように水面に浮かび、じきに流れに運ばれ、視界から消えた。
でもそれは、かじかんだ私の心に久しぶりに届いた、リアルな赤だった。
風の中に、街のざわめきが蘇り始める。
了
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