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「ちょっと待ってて、だってさ」
片手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、律儀に返信を送る。
秋らしいチェックのジャケットは、わざとオーバーサイズを選んだのだろうか。
その下はシンプルに黒で統一し、シルバーのアクセサリーがポイントになっている。
横を向くと、鏡を見ないままリップを塗った。ほんの三十分かそこらだったが、カラカラに干からびそうなくらい疲れていた。
将大はちゃんと歌えるのだろうかという緊張。お客さんの反応が薄かったらどうしようという不安。無名の将大は場違いなのではという恐怖。
そういった負の感情は、眩しいライトの中、歌いだした将大を見た瞬間に消し飛んだ。
将大は会場一杯の観客を、完全に自分の世界に巻き込んだ。
何より本人が一番楽しんでいるのが溢れるように伝わって、誰もが幸せな気分に浸っているのが分かった。
痺れるような衝撃だった。激しく心を掴まれて、一瞬たりとも目が離せなかった。
瞼を伏せて、優しくマイクに声を載せるところや、緩くパーマの掛かった髪にラメがキラキラ光るところや、指をかざしたり握り締めたりするところや、頷いたり傾げたりする首筋や、すらりと長い足が宇宙靴みたいな靴を履いてステップを踏むところなど。
なにも見逃したくなかったし、なにも聞き逃したくなかった。
途中で、何度か視線が合った気がした。知っているのに、知らない人だった。
ふわりと体が浮き上がってしまいそうで、爪先に力を込めた。
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