ウタカタ 第4話

6/6

208人が本棚に入れています
本棚に追加
/332ページ
 事務所に所属して一年が過ぎた頃、モデルの仕事以外にもバラエティやドラマの仕事も組み込まれるようになった。ドラマ出演といっても、こんな端役じゃ出るだけ無駄じゃないかと、殆ど自分のセリフがない台本を斜め読みした。  その現場で貴島は和久井と出会った。今よりずっと尖っていて、生意気だった貴島に、和久井は腹を立てるどころか気さくに接した。  無気力で無愛想だったが、貴島は馬鹿ではなかった。敬うべき相手くらいはちゃんとわかる。和久井は貴島より二回り近く年上で、芸歴も長い。しかしそれ以上に、人間ができている、という言葉を体現していた。そんな相手に突っかかるような真似はしなかった。  和久井の現場での振る舞いや、演じることへの姿勢。それらが少しずつ貴島の意識を変えていった。和久井はそんな貴島の変化を感じ取り、そしてその内部に秘めた可能性をも見通して、一冊の本を貴島に贈った。 『一期一会』  その本に和久井が書き記した言葉だ。演技を重ねる度に、演じた役柄が増える度に、貴島はその言葉の意味を実感する。  一生に一度きり。二度と同じ瞬間は巡ってこない。  演技に傾いていた意識が、瞬時に引き上げられた。  自分では貴島に釣り合わないと佐木は言った。それは佐木の主観だとしても、そんなのは今に始まったことじゃない。付き合う前から貴島は芸能人だったし、佐木はマネージャーだった。  自分に愛想が尽きたという可能性を認めるのが嫌で、貴島は今の今まで佐木が別れたい理由をちゃんと考えたことがなかった。本当に佐木があの夜口にしたのが全てだろうか。何かが腑に落ちなかった。  いくら考えても貴島はわからない。だけど確かなのは、自分はこのまま別れたくないということだけだった。
/332ページ

最初のコメントを投稿しよう!

208人が本棚に入れています
本棚に追加