フシダラ 第3話

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◇ ◇  ◇  教員が聖職と敬われたのは戦前の話で、今ではただの一労働者に過ぎない。それでも志も矜持も持たぬ私が、人に何かを教えることに違和感を覚えた。しかし田舎の母を支えねばならない。母の希望に応えなければならない。仕送りの為の金銭を得るには、働かねばならない。ただの対価として、私は教師であり続けた。  彼女と出会ったのは、母がこの世を去ってから一月程が経った頃。行きつけの古書店へ入ると、彼女が数冊の本を売りに出しているところだった。今店主が手にしている本はドストエフスキー、『罪と罰』。他にはゲーテやシェイクスピア、ヘルマン・ヘッセなどが積まれていた。それを見つめる彼女の瞳はひどく哀しそうだった。査定を終えた店主に買値を告げられると、彼女は一瞬何かをぐっと堪えるような表情をしたあと、承諾した。私は店主からくしゃくしゃの百円券を数枚手渡される彼女に近付いた。 「この本を売って頂けますか?」  彼女が弾かれたように私を振り向く。顔馴染みの店主も驚いたような表情で私を凝視していたが、やがて私の意図を察してか、何も言わずにただ売値を告げた。  買い戻した本を差し出す私に、彼女は躊躇う素振りを見せたが、やがて両手で遠慮がちに受け取り、大切そうに胸に抱き締めた。
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