フシダラ 第8話

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 四十代中頃の男、文彦は、ぎょろりとした目つきで私を見上げ、奇声を上げる。伊織は床にへたり込んだまま、動揺した顔で私を見ていた。文彦は意味不明な言葉を叫び、部屋にある物を私に向かって投げ付ける。私は一度振り向き伊織を見た。綺麗な顔が、泣きそうに歪んでいる。その瞬間、 どくり、と鼓動が鳴った。全身に巡る熱い血潮を感じて、ああ、私も血の通った人間だったのだなと、妙に冷静な頭の片隅でそんなことを思った。文彦が投げたベッドライトが、肩にぶつかる。私はそれを気にも留めず、床に落ちていた割れた瓶を掴んだ。それを手に、文彦に一歩近付くと、文彦は動きを止める。また一歩足を踏み出すと、叫びながらベランダの方へと走った。 「ひっ、人、殺し!」  伊織の手を引き、強引にこの家から連れ出そうとしても、きっとそれは叶わない。何故なら伊織を縛り付けるのはこの館ではなく、父親だからだ。物理的な距離を作ろうが、心が捕らわれたままでは彼は解放されはしない。  ベランダの隅まで逃げた文彦に私は近付く。逃げ場所を失った文彦は、呻き声を上げながら、外へと身を乗り出した。  ああ、これなら簡単だ。私は持っていた瓶を床に放り投げた。最後の一歩を踏み、私は文彦の体を両手で突き飛ばした。 ◇ ◇  ◇
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