すみれ咲く季節

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雪の日は嫌いだ。 母との別れを思い出してしまうから。 母は、いわゆるいいところのお嬢さんで、何の間違いか、荒くれ者の父に嫁いだ。 その結婚までの道のりもかなり波瀾万丈だったらしいが、とにもかくにも、母はほぼ駆け落ち同然で家を出、町を出て、父と結ばれ、俺を産んだらしい。 記憶の中の母は、いつも歌を歌っていた。 蝶や花よと育てられた母は、子供の俺が言うのもなんだけど、天真爛漫で、擦れたところがない人だった。 テレビから流れてくるCMソング、子供番組のテーマ曲、スーパーの妙に浮かれたBGM。料理をしたり洗濯物を干したり、なにかに熱中すると無意識に口ずさんでしまうらしく、俺が見ていることに気づくと、「声に出ちゃってた?」と恥ずかしそうにはにかんで肩をすくめた。 決して裕福ではない…というより、貧乏ではあったけれど、母は必ず一輪の花を食卓に飾っていた。どんなことがあっても、花を見れば心が安らぐのだと言って。母はもともと植物が好きで、実家の庭は、母が四季折々の花を植え、整えていたらしい。 俺が友達と喧嘩したり、欲しいものを買ってもらえなくてぶすっとした顔をしていると、花を前に、優しく抱きしめて、歌った。 〈♪おはながわらった〉 〈♪ママがわらった〉 〈♪ユウヤがわらった〉 〈♪みんなわらった〉 〈♪一度にわらった〉 それが童謡の替え歌だと知ったのは、いつだっただろう。 抱きしめられながら、ゆらゆらと甘い母の香りと歌に揺られていると、俺はいつの間にかなんでもよくなってしまうのだった。 母はいつまでも清廉潔白で、神々しさすらあった。後ろ暗いところがある人間には、母の無垢さは眩しすぎただろう。それは父も例外ではなく。 中学に上がる頃には町一番の荒くれ者と言われていた父だが、母と出会ってからは真っ当になろうと努力していたらしい。 実家に勘当され、それでも自分についてくるという女を捨てることなんてできない。 荒くれ者だからこその仁義みたいなものがあったんだろう。 必ず幸せにするからと、見合いを控えた20歳の母を奪い、指輪を渡したその時に、父と母の命運は決まってしまった。 一生ついて行こうと思ったの、と母は幸せそうに幼い俺に指輪を見せてくれた。もっとも、それはガチャガチャで取ったみたいなおもちゃのリングだったけれど、母にとっては実家に与えられるどんな豪華な品物より輝いて見えたんだろう。 でも、10代そこそこから15年以上、生粋の荒くれ者の父が、真人間になろうと決めたところで、そう簡単になれるはずない。 母が21、父が27を迎えたとき俺が生まれ、家はますます貧乏のスパイラルにハマっていった。 最初はたしかに幸せだったと思う。幼なすぎて記憶にはないけれど、それでも写真に残る家族は笑っていた。 でも、裕福だった母にこんな思いをさせているという負い目が父にはあったんだと思う。 いつしか、やめていたはずの酒もタバコもギャンブルも再開し、時に暴力を振るった。 それでも母は、俺を抱きしめ、微笑みながら歌いつづけた。いつか、〈みんなでわらえる〉時がまた来ると。 だけどそのとき母はもう、壊れ始めていたのだと思う。 俺が小学5年生の冬、母は崩壊した。 その日、学校から帰宅し呼び鈴を鳴らしても、なぜか誰も出なかった。 これまで母が俺の帰宅時間に留守にしていたことはなかったから不思議には思ったけれど、近所のスーパーにでも行っているのだろうと、俺は玄関前で待つことにした。 今季一番の寒波で、雪空が広がっていた。 しばらくすると、見慣れない車がアパート前に滑りこんでくる。 車が止まると同時に見知らぬ老夫婦が飛び降り、バタバタとこちらに向けて駆け上がってきた。 俺が座る扉の前に来ると、俺なんて目に入ってないみたいに、ドンドンと、女性の名前を呼びながら扉を叩き始めた。 俺はその勢いに驚いて飛び上がり、その様子をただ見つめていた。呆気にとられているうちに、アパートの大家と若い男性が駆けてきて、老女に急かされながら家の鍵を開けた。 「すみれ!」 老夫婦が部屋に飛び込み、大家と若い男性も続く。そこからはもう、怒涛だった。 救急車が到着し、母が担架で運び出されていく。それを目に映しながら、「ああ、母は『すみれ』というのか」と、そんなどうでもいいことを思っていた。 雪がちらつき始め、息は白く俺の視界に靄をかけた。 泣きじゃくる老女に寄り添い肩を抱く老紳士に向けられた、凍るような視線は今でも忘れられない。 俺はそれから母に会っていない。 *** 「優也! おーい! 大丈夫?」 今にも雪が降り出しそうな空を見上げ、過去を思い出していた俺は、からっとした声に引き戻される。 「ごめんね、遅くなっちゃって。待ったでしょ?」 申し訳なさそうに眉を下げ、ストレートの髪を揺らして俺の顔を覗き込むのは、武藤明日菜。2年ほど付き合っている彼女だ。 「いや、大丈夫。それよりこれ、手土産。花月庵の最中にしたけど、あんこ大丈夫だったかな」 「花月庵?! 優也センスいい! うちの家族みんなここ大好物なの。お正月はいつもここでお菓子買うんだよ」 ぱっと表情を明るくされ、俺は胸を撫で下ろす。 年の瀬を迎え、5日間の短い冬季休暇を迎えた俺は、今日、明日菜の実家に行くことになっていた。 とはいえ、まだ結婚とか具体的な話をしているわけではない。 明日菜とは同期入社で、2年前から付き合い始めた。今年で27になるので、明日菜のほうは考えているのかもしれないと心が痛むが、それでも、両親の末路を思うとそう簡単には踏み切れなかった。 あの日、自殺を図った母は一命を取り留めたそうだが、当然ながら生活は破綻した。正確には、あの日母を連れ出した母の両親、すなわち俺の祖父母が頑として母を戻さなかった。 俺は必然的に父と2人暮らしになったが、父の甲斐性ではそう長く続くわけがない。俺は早々に養護施設に入ることになり、18までを過ごした。 当然、俺の保護については母方の祖父母にも話がいったが、彼らは断固として首を縦にふらなかったそうだ。 周囲の大人たちは、「色々あったとはいえ、孫なんだから。子供に罪はないのに、なんて非情なの」とコソコソと非難していたけれど、愛娘をあんな目に合わせた男との子供を愛せるわけがない。俺は、ただ一度きり人生ですれ違っただけの祖父母たちが至極真っ当に思えた。 父のようになりたくなくて、必死で勉強して奨学金を取得して大学に入り、一応は大企業といわれる会社に就職した。それでも、俺も父のようになるのではないかという不安は拭えなかった。 明日菜は俺の過去も知っていて、それでも一緒にいてくれている。 今日も、冬季休暇に帰る家もなく1人過ごす予定だった俺を、だったら一緒に行こう、と誘ってくれたのだ。 「ここ! ささ、入って! おかーさーん、優也きた!」 明日菜の家は、モダンな一軒家だった。 隣は空き家なのか、人の気配はしなかったけれど、なんともハイソな雰囲気の街になんだかそわそわする。 ここは、郊外だが、高級住宅街の部類に入るエリアのはずだ。 そんな俺には気づかず、明日菜は中へと入っていく。 「優也くん? 初めまして、明日菜の母です。会えて嬉しいわぁ」 ほわっとした雰囲気を醸し出すその人は、明日菜にそっくりだった。 「料理、いっぱい用意してるから。遠慮せず食べてね!」 「お母さんの料理、たまーにヘンなやつあるから気をつけて」 「なにそれ〜ちゃんとレシピ通りにやってるのよ? それに今日はお寿司もとってるから! あらやだ、そういえば、優也くん生魚大丈夫だった? 聞いてからとればよかったわ」 「優也お寿司大好物だよ! ね!」 母子の会話に曖昧に返事をしながら、俺は明日菜の父と妹が待つ居間に向かった。 食事会は滞りなく終わり、20時を過ぎる頃、俺はお暇することにした。 玄関を開けると一層冷え込んでいて、明日菜と2人、身震いする。 「雪、降りそうだね」 「ああ」 明日菜はぐるぐる巻きにしたマフラーに首を埋め、白い息を吐きながら鼻を赤くする。それがどうしようもなく愛おしかった。 しばらく無言で歩く。 周囲の家々からは暖かい光が漏れ、この全てでさまざまな人が支え合い生きているのだと思うと、なんだか世界に取り残されたみたいな気持ちになった。 そのとき、横から鼻歌が聞こえた。 〈♪おはながわらった〉 たしかに、そのメロディだ。 「その曲」 俺が思わずつぶやくと、明日菜が目を見開いて俺を見た。 「あ、ごめん声に出てた?」 はにかむ明日菜に、昔の残像が重なり胸がざらつく。 「おはながわらった、っていう童謡。優也、知ってた?」 「ああ、知ってる」 「ひさびさに実家に帰って、思い出しちゃったんだよね」 「何を?」 明日菜は前に向き直り、足を止めることなく話し始めた。 「隣の家。今は空き家なんだけど、私が小さい頃には人が住んでたの。いつも、女の人が縁側に座っていてね、歌を歌ってたの。すっごく儚くて、ああいうのを深窓の令嬢って言うのかなって思うような、綺麗な人。何歌ってるのかなぁっていつも気になってたんだけど、なかなかわからなくて。その人、ガーデニングが趣味みたいで、お庭でいろんなお花を育ててたんだよね。そんなところも素敵だなぁって、憧れのお姉さんみたいな感じで。 それからしばらくして、夏休みにね、妹が朝顔を枯らしちゃったの。妹はそういうのもう全然関心無いからすぐ忘れちゃってたんだけど、私はほんとに悲しくて。お庭でしょんぼりしてたら、その人が声をかけてくれたの。育ててたお花をくれて、こうやって育てるんだよって〈♪おはながわらった〉を教えてくれた。その時、いつも歌ってたのがこの曲だったんだって知ったんだ」 明日菜の話に、俺の心臓は割れんばかりに暴れ回っていた。 「それからしばらく仲良くしてもらってて。私が中学生の間に引っ越しちゃったんだけど、今日ひさびさに帰ったら思い出しちゃった」 「その人って…」 「あんまり事情は知らないんだけど、お母さんによると、元々あの家の娘さんなんだって。若いとき駆け落ち同然で家を出て結婚されて、でも、色々あって精神的に不安定になって戻ってきたって…。でも、私は全然、そんなふうには思わなかったな。ほんとに、なんていうんだろ、清らかというかなんというか」 こんな偶然があるのだろうか。明日菜が交流していたという女性は、きっと母だ。 「私が今の会社にいるのも、思えばきっと、あの人とのお喋りが楽しかったからなんだよね」 明日菜は笑いを含んだ声で続ける。 俺と明日菜は、全国にフラワーショップを展開する大手企業に勤めていた。 かくいう俺も、花に惹かれたのは母の面影を探したからだったと心のどこかで思う。 ーー母が繋いでくれた縁だったのか。 年甲斐もなくぼろぼろと涙がこぼれ、足が止まる。急に隣に居なくなった俺に気づいたのか、明日菜も立ち止まり振り向くと、慌てた様子で駆け寄ってきた。 「どうしたの?! やだ、なに?! 私なんか変なこと言っちゃった?!」 おろおろとする明日菜を、俺は無言で抱きしめる。 「明日菜、俺…」 「なに?」 「明日菜に会えてよかった」 「うん…? 私も…?」 街灯の下、雪がちらつき始めた道の真ん中で、俺はしばらく涙が止まらなかった。 終
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