黒い靄

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 毎年、春が近付いて来ると、どうしても思い出してしまうことがある。  忘れようと思っても、忘れられない。  あの出来事をどうやって自分の中で消化するべきか、何年経ってもわからないままでいる。  数年前の春。  まだ新入社員が入ってくる前、社員が一人自殺した。  残業もほとんどない我が社では、自分のやるべき仕事が終われば終業になる。  プライベートを詮索することもなければ、検索されることもない。  当たり障りのない会話が発生して、淡々と仕事をする。  ホワイトよりな会社に、業務内容。  もちろん仕事だから、それぞれ何かしらの不満がある。  それでも長く続けている人がいるから、悪い会社ではないと、そう思っていた。  ただ。  Sさんだけは、違った。 「あんた、接客をバカにしているの? そもそも、その名前に合わない容姿なら、それなりの努力しろよ」  パワハラが混ざる言葉に、周りは息を潜めた。  そんな空気もお構いなしに、鼻息を荒くして、Sさんは怒鳴り続けている。  仕事内容のミスを指摘するのはまだしも、それに付随して、Sさんは、ミスした相手の容姿までも責め立てる。  あの勢いに、部長や課長が間に入っても「教育できないくせに黙ってて。こんなバカを雇っていたら、恥さらしもいいところよ」とやり返されてしまう。  Sさんを怒らせたのは、入社一年目の新人で、いつもニコニコしていて、データ入力も、電話対応や受付業務でも、一生懸命にやっている子だった。  対応したお客様が、彼女の言葉遣いを指摘したことがSさんの耳に入り、この騒ぎになった。  怒られている女子社員は、容姿や名前を否定されながら怒られているからか、俯いたままだった。  そして、次の日から彼女は会社に来なくなった。  数日後、彼女の両親が、彼女の私物を取りに来た。  会社に来なくなって数日後、彼女はこの世か姿を消した。  みんなSさんのせいだと影で噂をしていたけれど、Sさんは「親が可哀想」と言っただけで、何も感じていないようだった。  何事もないように日々の業務をこなしていく中で、Sさんの周りに黒い靄のようなものが見えるようになった。  黒っぽい影のようなものが見えるか聞いても、他の同僚には見えないようで、何を言っているのかわからないという顔をされた。  Sさんに纏わエイついている黒い靄は、疲れているから見えているだけだと、自分を納得させた。  Sさんは社歴の長いベテラン社員だ。  太り気味の体に、少し長めのネイル。  普段着も派手で、影で「人のことを言えない」と言われている。  いつも怒っているからか、眉間に縦皺がくっきりと二本入っていて、顔色はくすんでいて、化粧で誤魔化せるレベルではなかった。  しかも、私には、Sさんに絡みつく黒い靄が見えているからか、彼女の肌はどす黒くくすんで見えていた。  昔は知らないが、ここ数年は、瞬間湯沸かし器かと思うほど、Sさんは怒りっぽい。  業務のミスを正したいのだろうけれど、とにかく言葉の選び方が最低だった。  容姿や名前には本人にはどうしようもないことを平気で責立てる。  もちろん、それは、会社内だけでなく、会社近所のお店でも、Sさんは怒鳴り続ける。  いつでも、どこでも、自分が気に入らない態度を取る人間は正さないとならない。  そう考えているようだった。 「あいつ、またコンビニで怒鳴っていたよ。同じ会社だとバレるの恥ずかしいから、別のコンビニ行ってきたよ」 「わかる。ああいうのをカスハラって呼ぶんだろうな。社員証ぶら下げて、良くやるよ」  そんな声も聞こえてくるし、Sさんが原因で退職した社員も多くいる。  社内で、パワハラマニュアルが作られたが、Sさんには何も効果がなかった。  彼女は、いつも正しい行いをしている。  だから問題ないのだと、そう主張していた。 「じゃーん。奮発して××のルームフレグランス買ってきちゃった」 「わあ、いい匂い」 「でしょ。なんか最近、社内が臭うような気がして、モチベ下がっていたんだよね。だから買っちゃった」 「デスク周りに置いてほんのり漂う香りを楽しむのはありだよね」  うんうんと話を聞きながら、ほんのりと漂うフレグランスにうっとりと嗅覚を傾けた。 「うっ」  急に鼻腔に獣の臭いが混ざり、吐き出しそうになる。  私はハンカチで咄嗟に口元を押さえた。  ドス黒い靄を纏ったSさんがすぐ後ろにいた。 「いいわね。そういうの。私も置きたいけど、臭いわよ。やめなさい。迷惑だから」  なんだ、こいつ。  そんな顔を一瞬見せた同僚は「あー、はい」と気のない返事をした。 「その態度は、何なの! そもそも、ここは会社なのよ。あんたの部屋じゃないんだよ。鼻がバカなあんたにはわからないかもしれないけど、臭いのよ。わかってる?」  鼻息が見えるほどの勢いで、Sさんは怒鳴り続けた。  黒い靄が彼女の周りをぐるぐると巻いていて、獣臭がきつくなる。 (うるさい)  声が聞こえた瞬間、耳鳴りがした。  ガンガンと頭の中を叩きつけるような音が鳴っている。 (お前が消えればいいのに)  ピシッと何かが割れるような音がした。 「うぁぁぁぁぁ」  雄叫びを上げて、Sさんがのたうち回っている。  黒い靄が人の形になっていく。  二本に分かれた靄は、Sさんの首を絞めるように、絡みついている。  靄は、だんだんと人の形に変わっていく。  ……あれは。  Sさんにパワハラを受けた女子社員が、靄の中で笑っていた。  目の前で何が起こっているのか、私には理解できない。  Sさんは、警備員に取り押さえられても、獣のような声を出し続けて暴れている。 (この世界から永遠に消してあげる)  聞こえてくる声にした私は目をつむり、耳を押さえた。  次に目を開けた時、Sさんはいなくなっていた。  数日後、Sさんが体調を崩し退職することになったと、部長から説明があった。  警備員に取り押さえられて、警察に連れて行かれても、Sさんはあばれ続けていたという。  精神疾患を疑われて入院措置を受けているとのことだったけれど、部長の説明を受けている間中「いなくなっていた良かったでしょ」と、絶えず声が聞こえていた。  あの日以来、あの声は聞こえない。  それでも、毎年、春先に思い出してしまう。  Sさんに纏わりついていた黒い靄は、自ら命を絶ったあの女子社員だったのではないかと。      
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