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なのに一夜明けた二日目の取り調べとなると……
飛江田の態度は何故、こうも変わってしまったのか?
聴取が始まると厄介な中年ニートは自分から勝手に喋り、止まらない。
「実はなぁ、うらの母さん、呆ける前に生命保険に入ってたんさ」
「保険!? 何時から?」
「そんなん知らんけど、殺しゃ金が手に入ろうもん。パチンコでも、競馬でも、何でもできっざぁ」
「だから殺したと?」
「ほやほや、はっきりしてっしょ」
輝夫はニンマリ笑った。
「ほんで皆、安心できっざぁ? 刑事さんも嬉しっしょ?」
こちらを覗き込んでくる充血した瞳に、奇妙なデジャブがあった。捕った鼠を飼い主の前に置き、得意げに褒美をねだる飼い猫と何処か似ている。
「お前、誰かに、何か言われたか?」
例によって例の如く、内心の苛立ちを噛み殺して小杉は訊ねた。
誰か、と言っても、輝夫は身柄を拘束されている被疑者だ。
犯行から間も無く逮捕に至り、証拠隠滅も考えられない状況であった為、捜査本部が立ち上がる事は無かった。
留置場で過す輝夫と接触できる者は極めて少ない筈だ。
しかし、所謂「警察関係者」の誰かなら可能だ。
マスコミが喜ぶネタの方角へ輝夫を誘導した上、情報を売ろうとした奴がいるのかもしれない。
畜生、コイツは俺のネタだぞ!
縄張りを誰かに荒らされた気がし、小杉は内心穏やかでは無かった。
「仮に保険が事実だとして、欲徳ずくの犯行と俺には思えない」
「だんねざぁ、そんなん、どうでも」
「殺しの動機を説明できず、苦しむお前を、誰か利用しようとしてんじゃないか?」
「……ものごいのぉ! 別に良いって、そんなン、どうでも」
輝夫は窪んだ目を見開き、初めて激しい怒りを剥き出しにした。
でも、激高はほんの一瞬。
すぐ両肩を落とし、又、貧乏ゆすりが始まる。
「なぁ、俺にだけ本当の事を言ってみな。きっと今より楽になるぜ」
精一杯優しい声を出す小杉にほだされ、輝夫は顔を上げた。
外の雪は一向に止む気配が無い。
荒ぶる吹雪が窓ガラスを震わせ、うるさくて仕方ない。
喉の奥から絞り出す輝夫のか細い声は、聞き取るのがやっとだった。
「……雪だるま」
「は?」
「母さんと雪だるま、作ったんさ」
「あの日、犯行の前に?」
「さんざん捜し回ってのぉ。潰れたスーパーの駐車場で見つけた時、母さん、ゴロゴロ雪玉を転がしとった。なんか、すげぇ楽しそうでのぉ」
途切れ途切れ、言葉を継ぐ。
ひび割れた唇が、この時だけ、少し緩んだ気がする。
「口ん中でブツブツ言う声、全然聞こえんからの。近くへ行ったら、死んだ父さんに話してたんさ」
「何か、雪に思い出でもあるのか?」
「さぁ……どうだっけ?」
輝夫は、もう小杉を見ようとせず、俯いたまま話し続けた。
「雪玉、転がし、転がし……家ぇ帰ろって、うら、声を掛けたんよ。でも母さん、うらの事、分らんかったかなぁ。大声上げて、逃げようとしてのぉ……」
顔を上げ、又、いつもの笑いを浮かべようとする。
でも、うまくいかない。笑う代り、唇が引き攣る。煎餅顔のひび割れが大きくなり、視線が落ち着きなく宙を彷徨い続ける。
怯えているのだ。
この取り調べが始まって、小杉は、彼の人間らしい表情を始めて見た気がした。
「雪がのぉ、ずんずん降ってきて、まぁ、目の前がひっでぇ見えにくうてのぉ。逃げる母さんの背中が空と地面の境目、灰色の真ん中へ消えちまいそうで」
「怖くなったか」
輝夫はコクンと頷いた。
「母さんの年金、無いと生きてけねェもん。働きに出たら、うら、いつも苛められるし、パチンコだって打てなくなる」
「……そりゃ、まずいな」
「うら、もう必死やざぁ。後ろから母さんの首根っこ押さえつけたら、ひっでぇ引っ掻かれた」
無意識に掻きむしる手首、母の残した傷から血が滲み出す。
「手加減無ぇんだもん。うらも思いっきし手に力入れてさ。その内、母さん、動かなくなったんさ」
語り出したら一息だ。経緯からして、明確な殺意は認められない。
「生命保険の話、やはり嘘なんだな」
「うら、知らね。有るかも知れねぇども」
「何でそんなデタラメ、言う気になった?」
「辛ぃんさ、わからねぇっての」
「え?」
「あん時、どうして死ぬまで母さんを離さんかったか、自分でもわかんねぇ。もしかしてうら、本当に殺す気で……」
輝夫は口ごもり、次の言葉が出るまで、しばらく待たなければならなかった。
「吹雪の音も止まんねぇ……ビュウビュウ、と……あれから、空っぽの頭ン中……」
「今も?」
「ああ、パチンコ屋の、あのうるせぇ音なら消せると思ったのに」
「お前、それで現場からパチンコ屋へ行ったんだな」
「眠れねぇし、頭ガンガンするし、その内、何ンか、目の前まで暗うなって……」
「で、嘘をついたら、楽になったか?」
「あんたが前に言った通りざぁね」
ニンマリ笑う。
「ホントかどうかより、安心が大事」
顔色は真っ青なままだが、もう先程までの怯えは伺えない。
「デタラメでも何でも、それっぽい理屈つけた方が安心できるもんだなぁ」
この笑顔は、多分、己の醜さから目を背ける為の「弱者の鎧」なのだろう。
事件前から、それは存在していた筈だ。
外の世界で落ちこぼれ、引きこもって母親との二人暮らしを続ける日々。
先行きへの不安や閉塞感、介護の苛立ちといった認めたくない負の感情が否応なしに湧き上がる。
まともに向き合えば壊れてしまう。
だから、それらをとことん無視する習慣がついたのではないか。
笑ってごまかすのだ。
外の世界で暮らす他の誰より、まず自分自身の気持ちを……
その嘘の全てを覆い隠す肉の仮面が顔面へ張り付き、離れなくなったのだろうと、小杉は思った。
「昨日も夢を見たんさ。母さんが、吹雪に呑まれちまう夢……追いかけたら目の前が灰色で、もう何ンも見えなくて」
「ホワイトアウト」
「はぁ?」
「強い吹雪が視界を覆い、何も見分けがつかなくなる現象だ。北陸の一部では、それを吹きさらしと呼ぶ」
「へぇ、怖ぇなぁ」
強張った眼窩の奥に、落ち着きなく揺れる瞳が見えた。
その奥に外の吹雪と同じ灰色が満ち、ひびわれた笑いは凍りついたまま動かない。
多分、こいつは間も無く死ぬだろう。
刑務所に収監された囚人の内、何割かは特に重い病気にかかるでもなく、緩やかに衰弱し、死へ向うと言う。
そんな死に惹かれていく者特有の匂いを、輝夫の歪んだ口元に感じる。
取り調べを終え、検察送致の手続きも済ませた小杉は、人気の無い備品倉庫へ入り、水谷佑美へ電話をかけた。
「飛江田の事件、真相がわかったんだが、今夜、逢えないか?」
昨夜のバーでの喰いつきを期待したものの、相手の反応は素っ気ない。
「そのネタなら間に合ってます」
「動機はギャンブルの金目当てだとか、誰か、デタラメ言ってきたんじゃないの?」
「え、何それ?」
「とぼけんな。お前、俺以外にもキープしてんだろ、警察関係者」
言いがかりだと佑美は答える。だが、からかう様な口調から他のタレ込みを得ているのは確かに思えた。
「何にせよ、この件、タイミングが悪すぎるわ」
取り付く島も佑美には無い。
豪雪の被害が拡大しつつあり、その話題で世間は持ち切りだと言う。近年発生した地震の被災地で土砂崩れの恐れもあるとか。
天災が続き、社会不安が高じてくると、求められるのは明るい話題だ。
日本人大リーガーの年棒が百億超えたとか、芸能人の結婚、スキャンダルとか……敢えて暗い事件の真相へ興味を持つ者は多くない。
かと言って、災害が一段落ついた後だと、野次馬の熱も冷めているだろう。
「言ったでしょ。元々、好みの事件じゃないの。又、次の機会にヨロシク」
言うだけ言って、向うから電話を切る。
小杉はため息交じりに傍らの窓を掌で拭い、雪景色を眺めた。
屋内外の温度差から窓ガラスが曇る寸前、映り込む自嘲の笑みに輝夫の、あの歪んだままの口元が重なって見える。
己を隠す弱者の鎧。
罪人の情報を切売りする刑事と、死への安易な逃避を願う被疑者は、醜悪さにおいて大差が無い。
俺らは所詮、嘘つき同士。どちらも状況に流されているだけ。罰する側と罰せられる側、その境界線は何処にある?
ふと、一人暮らしの母、そっぽをむく妻、娘の顔が次々と脳裏に浮かんだ。
ろくな老後は無ぇわ、俺にも……
小杉が物思いに沈む内、窓は再び雪に覆われ、吹きさらしの向う側は何一つ見えなくなってしまった。
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