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さかえちゃん
さかえちゃんは山登りが大好きだった。
きっかけは高校性の頃、好きになった人が登山が好きだったから。
登る山にも恵まれていた。住んでいたのが長野県だったから。
一緒に色々な山に登った。
一番近い蓼科山。
少し遠いけど、富士山。
上高地の涸沢から色々な山に登っては降りてきた。
若かったし、楽しかった。
親の手前度の山にも日帰りで行ってきた。
さかえちゃんは結婚してからは夏の山にしか登らなかった。
結婚してすぐに子供が生まれて、危ないから冬山にはいかないと夫に約束させられたからだ。
子供が中学生になったら冬山に行ってもいいと、夫とは約束していた。
でも、普段お店をやっていたので、夏の山に登る時もお店が終った夜中に移動して、翌朝から登り、その日のうちに下山してきていた。
さかえちゃんは夫と二人で行商をしていたが、やがてお店を持って借家でお店をしていた。
最初に住んでいたのは、下の段と言われるところにいて、周りには里山しか見えない低い場所だった。
お店が順調に大きくなって引っ越して、自分の家を持った。
場所は上の段と呼ばれるところで、冬の晴れた日などは、二階でお洗濯を干していると、家並みからひょっこりと頭を出した蓼科山が見える事があった。
とてもとても晴れていたある冬の朝。
さかえちゃんはどうにも我慢できなくなって、店員さんに
「ちょっと出かけてくる。」
と、言い残し、バイクで冬の蓼科山に向かった。
いつもは山の会の人たちと一緒に行くのだが、蓼科山は冬山とはいっても、小学校の登山から20回以上は登っている山だ。
どうしても登りたくなってしまったのだ。
バイクに乗る時にはいつも山用の冬装備を着ていたので、誰にも気づかれずに蓼科山にささっと登って帰ってこようと思ったのだ。
さかえちゃんは慣れた冬の道路をバイクで飛ばして、蓼科山の麓にバイクを停めた。冬の事で、今ではスキー場として整備されているが、さかえちゃんが登ろうとした頃には、冬は山は閉鎖されているような状況だった。
だからどこにバイクを停めていてもとがめられることもない。
バイクには一応カバーをかけて、鍵をかけて、貴重品も全部リュックに入れて、冬の蓼科登山を始めた。
久しぶりの冬山はとても楽しかった。
慣れ親しんだ登山道。凍った樹々。邪魔なガラもない全部雪の下になっている道。
さかえちゃんは冬用の登山靴をこっそり持ち出していたのでその靴で順調に山頂付近の山小屋まで着いた。
山小屋もすっぽり雪に埋もれて、屋根の頭がかろうじて見える程度だったが、何度も登っているので、それが山小屋であることはさかえちゃんにはわかったのだ。
登るのに思ったより時間がかかったらしい。
山小屋からさらに山頂を目指して、氷った雪を削って登っていく。
ついに頂上に着いた時、山の反対側の諏訪湖方面がとてもよく見えた。
登った時とは反対側だったのに、さかえちゃんはどうしてもそっちに行きたくなった。
夕日がものすごく綺麗だったのだ。
さかえちゃんは後の事も考えずに、蓼科山のてっぺんから、リュックに入っていたビニールシートをお尻の下に敷いた。
蓼科山は夏は大きな石や岩があって、頂上は大変歩きづらいのだが、時は真冬。ツルツルに凍っている山はまるで滑り台だった。
きっと、さかえちゃんは今の生活に少し疲れていたんだろう。
「ひゃっほ~~~~」
大きな声を出しながら夕日に向かって山を滑り始めた。
夕日は茜色に輝き、さかえちゃんの顔も照らす。
山は本当によく滑った、さかえちゃんは氷の段差で途中クルクルと回ったりビニールシートもいつの間にかなくなったりしながら、止まるすべもなく、勢いよく山を滑り落ちて行った。
『も~どうなってもいいわ~。』
さかえちゃんはそんなことを思っていた。
滑るだけ滑って、ようやく止まった。どうやらどこにも怪我もせずにふもとまで着いたらしい。
あたりを見回すと、当然のことながら、そこは登ってきた場所とはまるで離れた場所だった。
車の通る道路まで歩くと、冬山からあまりの軽装で降りてきたさかえちゃんをみたガソリンスタンドの人が驚いて声をかけてきた。
「大丈夫かえ?どこから来た?」
さかえちゃんは、大人なのにあまりに軽はずみなことをした自分の事も恥ずかしかったが、バイクのある所まで送ってもらわないと帰れないので正直に言った。
「望月です。」
降りてきたのは諏訪湖側の立科町のある所だった。
「望月の方から登っただかい?」
「帰る時に反対に滑ってきちゃって。」
スキーの一つも持っていないのに、滑ってきたというさかえちゃんがおかしかったのだろう。
バイクのある所まで乗せて行ってやると言って、おじさんは車を出してくれた。
その前に、さかえちゃんはガソリンスタンドで家に電話をして、帰るまでにもうちょっとかかると伝えた。
バイクで帰ってきたさかえちゃんは、その時お店に勤めていた自分のお姉さんにこっぴどく叱られた。
いつまでもかえってこないでバイクで飛び出していったきりの妹の子供達はお腹を空かせいたし、お姑さんも食事を作ろうとしない。
さかえちゃんの旦那さんは教えている高校の遠征で留守。
しかたなく、お姉さんがさかえちゃんの家のご飯を作って待っていてくれたのだ。
お姉さんの家にだって子供はいたが、お姑さんがご飯を作ってくれるので、お姉さんはさかえちゃんを叱る為に待っていたのだ。
その翌日、さかえちゃんは、学校が休みでのんびりと本を読んでいた私に、昨日の立科登山の事を話してくれた。
そう。さかえちゃんは、私のお母さん。
普段厳しくて、偉そうなことを言っているのに、なんて楽しそうにその時の事を話してくれた事か。
特に、最後に山を滑り降りる時の事は子供の様にほっぺをピカピカさせて話してくれた。
「雪もこおるとあんなに滑るんだんなぁ。」
「おかあさん、冬山に行っちゃいけないんじゃなかった?」
「蓼科山だもん大丈夫さぁ。」
私は、少々あきれたが、まぁ無事に帰ってきてくれて良しとしようと思った。
【了】
※皆様はけっしてこんな無謀な登山はしないでおいてくださいますように、切にお願いいたします。
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