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六
わたしにとって親友と呼べる存在は、鹿野をふくめると5人だ(もうひとりいたのだけれど、とある事情で絶縁になった。このこともいつか、私小説にしたいと思っている)。もしこの5人のうちだれかが、なんらかの事情で衣食住に困ったとしたら、わたしは無条件で手を差し伸べることだろう。わたしの生活は決して豊かではない。だけれど、なんとかしてあげたいと、あちこち奔走するに違いない。
鹿野からしてみれば、自分の仕事の手を止めなければならない事態に陥れば、遠慮なく関係を切ってしまうことだろう。かりにわたしが手を差しのばしてほしいと思っても、自分にはなんのメリットにもならないと、ばっさり断交されることだろう。それくらい仕事への熱意が徹底しているのが鹿野の魅力ではあるのだが、悪い言葉を使えば「薄情」だ。
一方のわたしは、「憐れみ」の気持ちを大事にしたいと思っている。たとえ、自分の手を煩わすことになろうとも、親友のためならその負担を引き受けることができる。そういう気持ちでいたいと思う。もちろん、そういう気持ちが微塵も起こらない相手からすがられたとしたら、逡巡することなく拒否するだろう。例えば、持ちつ持たれつの関係という名目で、車を出せと言うようなやつの放言には、耳を貸さない。
わたしと鹿島の考え方の違いというのは、この点に強く表れている。わたしは「不条理」や「不合理」というものを、大事にするとまでは言わないけれど、それを引き受けるべきときがくれば負担したいと考えている。一方の鹿野は、合理的な選択を常にしている。それは、大きな違いだ。そして、わたしたちの譲れない一線はそこにある。
鹿野のことは尊敬しているし、たくさんのアドバイスをもらい助かっているし、一言でいえば「依存」してしまっている。そのことには常々、後ろめたさのようなものを感じていた。わたしは、主体性のない、他人任せに生きている存在なのではないかと。しかしもし、こうした考え方の差異を保持し続けたとしたら、きっとわたしは、独立した主体であると実感できるだろう。
むろん、鹿野のスタンスは尊重するけれど、わたしは不条理さや不合理さ、言いかえるなら、抽象的な愛情を大切にしたい。そして、もし鹿野が苦境に陥ったとしたら、わたしは無条件で助けるだろう。そのとき鹿野は、どういう気持ちになるだろうか。そういうことにならないよう、うまく回避しながら生きるのが、鹿野なのだけれど。
わたしは、親友以外の関係を一方的に清算しただけでなく、創作活動を再開してからSNS上で知り合ったひとたちとの関係を、少なからず切ることにした。関係が途切れないために、頻繁にやりとりをしたり、「読み合い」をしたりするなんて、悠長なことはしていられない。
このことで、イベントの際に、もうわたしのスペースに来て新刊を買ってくれなくなるかもしれない。だけど、そんなことはどうでもいい。わたしの作品を読みたいと思ってくれるひとに手に取ってもらえれば、それでいい。義理や人情なんて、不要だ。
わたしは、自分の作品を読んで下さる方々に向けて、責任を持って執筆をしている。そして、これからも書いていく。わたしはプロになりたい。いつか先生とお仕事をしたい。読者の方に少しでも「温かい気持ち」を届けられればと思っている。
だから、わたしの認識の外側にいるひとに、「くだらない小説」と言われたとしても、意に介さなくてもいい。そんな罵倒には、付き合っている暇はない。
わたしはエゴイズムの塊だ。こんな性格だと、嫌われてしかるべきなのかもしれない。だけど、プロの作家になるという目標は、これくらいの覚悟がなければ達成できない。もう区切りのいい年齢に近づいてきている。わたしは、一秒たりとも無駄にしてはいられないのだ。
〈了〉
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