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雪の思い出といえば、三歳とか四歳とかの頃にどっさり雪が降った年が確かあって。
増田くんは言った。ほっぺたをりんごみたいに赤くして、炬燵にあたって、なおも寒そうに背中を丸めている。
その日は親戚の人たちも家に居たから、たぶん正月の頃だったと思うんだけど、本当に辺り一面真っ白になって、庭のドウダンツツジもすっぽり雪に包まれて、まるで白いブロッコリーのようだった。
白いブロッコリー。と聞いて、堀越くんは白いカリフラワーと白い葉牡丹を思い浮かべ、どっちがブロッコリーだったかと一瞬考えたが、すぐに別にどちらでもいいと結論して、話の続きを促すよう「うん」と言った。
屋根の上にも、沢山つもったんだよ。朝になると、軒下にぶらさがったつららが陽の光を受けてキラキラと光っていて、それが分厚い雪と一緒にドサッと落ちてきたんだ。屋根につもった雪の量も相当なもんだから、数分おきくらいで何度も落ちてくるわけ。
増田くんは唇を『たまごっち』に出てくる「くちぱっち」のようにニュッと突き出し、そして口角を下げてくちぱっちのままへの字口にした。
堀越くんは想像した。増田くん家の、広い縁側に面した掃き出し窓から、小さな増田くんが屋根から雪が落ちてくるのを眺めているところを。きっと今みたいに尖らせた唇の端をキュッと引き締めて、真剣な眼差しでじっと見ていたのだろう。
そんでね、実は僕、落ちてくる雪に当たってみたいと思ってて。屋根の下の雪の落下点に立ちたいなと思ったんだよ。雪の落ちて来るところってね、最初はプリントに引かれた「切り取り線」みたいにポツポツと一直線に凹んでいるんだよ。つららから垂れた水に溶かされてそうなるんだ。その真上に立てば、いずれ頭上に雪が降ってくるってわけ。
本当にやったの?
ううん。ばあちゃんから止められた。そんなことしたら死んじゃうぞって。つららが頭にぶっ刺さった挙げ句に、雪の重量に押しつぶされて、ぐちゃっ、となって、死んでしまうというんだ。
いきなりバイオレンス。「ぐちゃっ」という響きのねっとりした感じから、堀越くんは生々しく想像してしまった。真っ白だった雪が徐々に赤く染められていくところを。流れ出す血が雪と混ざりあい蒸気となって、もやもやと揺らめいた。あらやだこわい。
増田くんは、真剣な眼差しで堀越くんを見据えた。
言われたときはさ、脅しすぎみたいなことを思ったけど、今思えば、あれはマジだね。
堀越くんは穏やかに応えた。
やらなくてよかったんじゃん。
うん。
増田くんは半纏の襟に頭を隠すように首を竦めた。半纏は、堀越くんの兄のものだ。びしょ濡れだった増田くんを堀越くんは風呂に入らせて、自分の服を貸してあげたが、それでも寒そうだから兄の半纏まで引っ張り出してきた。兄は今は結婚して家を出ている。新居に持っていかなかったものを無断拝借したところで、怒るような人ではない。
茶の間は雪の夜特有の静けさにつつまれている。聴こえるのは石油ストーブの火が燃える微かな音と、微睡みかけの増田くんの寝息まじりの鼻息くらいだ。こうしていると、まるで世界には自分たち二人きりしかいないように感じられた。
雪は昼頃から降り始めた。夕飯の後、堀越くんは何となく食べ足りなさを感じて、コンビニに肉まんを買いに行こうと家を出た。
道路脇に積もったまっさらな雪を蹴りながら歩いていると、前方から強い光が堀越くんを照らした。堀越くんは眩しさに目を細めた。その横を一台のワンボックスがゆっくりと通り過ぎていった。
堀越くんは首を傾げた。何か悪いことの予兆のようなものを感じたのだ。気のせいだろうかと思いつつ、緩くカーブする道を進んでいった。すると、ちょうどカーブの終るくらいの道の真ん中に、人が倒れていた。車に轢かれた動物みたいに横向きに転がっていて、近くには自転車が倒れていた。
倒れている人の顔を見て、血の気が引いた。
増田くん!
思わず叫んだ、堀越くんの声に反応して、増田くんはうーと唸った。
大丈夫?
……たぶん。
さっきのワンボックスに轢き逃げされたのかと堀越くんは思ったが、増田くんによればそうではなくて、雪道を無理矢理自転車をこいでいたら転倒し、道の真ん中に投げ出されたところに、たまたまワンボックスが徐行してきた。
顔面にハイビームを浴びせられた増田くんは、自分の人生はここで終るのかと観念したが、ワンボックスは器用に増田くんをよけて、運転席の窓を開けると
だいじけ?
と、気遣いの言葉を残して、ゆっくり走り去った。そういう訳だった。
増田くんは、堀越くんが行こうとしていたコンビニで八時までバイトをして、家に帰るところだった。それにしては、帰る方向が逆だった。増田くんの家は東の方で、堀越くんの家は西の方だ。増田くんは言わなかったが、堀越くんの顔を見ようとわざわざ遠回りしようとしたのは明らかだった。堀越くんは、こんな雪の中を自転車を押して何キロも歩くのは危ないから、と説いて、増田くんを家に連れて帰った。
確かに。さっきは本当に九死に一生みたいな目に遭ったわけだしね。
増田くんは自分を納得させるように呟いた。
なんだか、人生にはたまにこういうギリギリセーフみたいな時があるけど、実はその時知らずにロールプレイングで選択肢を選んだ時のような、運命の分かれ道に僕は立っていたんじゃないかって気がするんだ。
最後の部分はもごもごと消え入るように呟いた。と思ったら、ぶしゅぅーと風船の空気が抜ける時のような音を発しながら、増田くんはゆっくり項垂れていき、
ゴッ。
額をこたつテーブルにぶつけると、自分の立てた音に驚いてビクッと体を震わせた。
大丈夫?
大丈夫。
起きてる?
おきてる。
換気しようか。
堀越くんは立ち上がった。カーテン、窓、そして雨戸を薄く開ける。冷たい空気が雨戸の隙間からすうっと入ってきて、鼻先を冷やした。吸い込んだ息の清涼さに、いつの間にか室内の空気がかなり濁っていたことに気づく。
振り返って見れば、増田くんは背筋を起こしているものの、炬燵テーブルの真ん中辺りを虚ろな目で見詰め、頭をゆらゆらさせていた。起きているのか寝ているのか、判然としない。
増田くん、まーすだくん?
……! おきてる。
堀越くんは自分の場所には戻らず、増田くんの後ろに回りこんで、その背中を抱え込むように座り、増田くんの両脇から炬燵布団に脚を入れた。
増田くんはうふふ笑うと、座椅子の背にもたれかかるように、堀越くんの胸に体を預けた。堀越くんは畳に片手を着いて、増田くんを支えた。
心地よさげに眦をとろんと下げている。そんな表情で増田くんが寛いでいるなんて、珍しいことだった。増田くんは他人の家が苦手らしく、堀越くんの家に遊びに来るときはいつも、体をカチコチに強張らせていた。誰の家に遊びに行ってもそんな感じなのだそうで、特に友達の他に家族がいるとなると、足を崩して座ることすら難しくなってしまうらしい。
今夜は家には堀越くんだけしかいないからというのもあるが、眠気のせいで理性が働いていないのだろう。
増田くんは、猫が飼い主の脚に自分の匂いを擦り込むときのように、堀越くんの胸にすりすりと頬を擦りつけた。
このセーター、お兄さんが編んでくれたやつ?
そう。
ふわふわして気持ちいい。なんか堀越くん、これ着てるとアザラシみたい。
アザラシ?
うん。真っ白でふわふわの、ゴマフアザラシの赤ちゃん。僕ね、ぬいぐるみ持ってたんだよ。お腹に隠しポケットがあって、そこにカイロを入れて抱いて寝ると、あったかいんだ。それを思い出した。僕がゴマちゃんが好きだって言ったら、カツ代伯母さんがくれたんだ。でも、ゴマちゃんと違って、ゴマフアザラシとしてリアルな体型のぬいぐるみだったんだよ。頭の輪郭がしゅっとしてて、首の部分がちょっとくびれてて、しっぽの先に向かって細くなる流線型の体をしてて。体のなかで胸のとこがいちばん広いんだけど、そういうところが堀越くんに似てる。
でっかいアザラシのぬいぐるみみたい?
堀越くんがつぶやくと、
うん……。
増田くんは目を閉じて、本格的にすうすうと寝息をたて始めた。
お布団行こ。こんなところで寝たら風邪引くよ。
こんなところで寝たら風邪引くよ、だなんて。遠い昔に母か父に言われて以来聞かなかったことばが、まるで当たり前のように自分の口から出たことに、堀越くんはちょっと驚いた。炬燵寝なんて、堀越くんにはよくあることだ。家に堀越くんのすることに小言を言うような人がいないから、どこで寝ようが自由だった。それで風邪を引いたことなんか一度もない。なのに増田くんには、なぜか言いたくなった。
ねえねえ堀越くん、
布団に入ると、増田くんはかえって目が冴えてしまったのか、急にはっきりとした口調で喋り始めた。
明日の朝、雪が沢山つもってたら、一緒に遊ぼうね。
うん。
堀越くんは毛布と布団を引き上げて、増田くんを耳の上まですっぽりと包んだ。
雪合戦する? それとも雪だるま作る?
僕ね、できればかまくらを作ってみたいな。たぶんだけど、昔一度お父さんと一緒に作った気がするんだよね。冷たい雪で出来てるのに、中はあったかいんだよ。でも、うろ覚えなんだ。幼稚園の頃に絵本でかまくらのことを読んだから、本の内容と想像が頭の中で混ざり合って、偽物の記憶を作っただけなのかも。もしかしたら、本物のかまくらを作ってみたら、お父さんとかまくらを作った思い出が本当なのか記憶違いなのか、わかるかもしれない。
じゃあ、かまくら、一緒に作ろう。
うん。あー、朝が楽しみになってきた。
堀越くんは、さっき雨戸の隙間から見た庭を思い浮かべた。堀越くんの家の庭は、増田くんの家の庭ほど広くない。しかも南側を三階建てのビルに塞がれているので、一年中日が当たらず陰気な庭だ。だが今は吹き溜まった雪にすっぽりと覆われて、ほのかに白く輝いている。かまくらは、きっと作れるだろう。二人でやっと入れるだけのかまくらを作って、二人で遭難ごっこ。たのしそうだ。
(おわり)
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