1.朝だち

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1.朝だち

「ねぇねぇ、朝だちってどんな感じなの?」  爛々と目を輝かせてそんなことを聞く実の母親へと、弘野紘太(ひろの・こうた)は露骨にげんなりとした顔を返していた。  ベッドの横から起きがけに、思春期の息子に対して卑猥な言葉をかけるなと言いたいところだが、うちの母親の場合は趣味や職業柄から致し方ない面があった。  作家…しかも性的表現を露骨に扱う方の作家が生業だ。だからと言って社会的に行き過ぎた行動をとるまでにはいかないが、その口からは下ネタが毎日のように炸裂している。  小さい頃からこういった環境で育った紘太は、とうに慣れてはいるものの未だ多感な時期の身としてはあまり触れて欲しくはないというものだ。  そんな男心など知る由もなく、母親は布団を思いっきり捲りあげた。 「ほらほら、もう起きないと遅刻するよ!」  布団だけを捲ると、布団の中を確認するわけでもなく母はさっさと階下へと降りて行った。  ベッドに取り残された息子の眼前に晒されたのは、パジャマのパンツの下でこんもりと立ち上がった己自身だった。 「はぁ…。こんなの、朝の生理現象だってば…」  高校生の紘太に、好きな相手はいなかった。この環境下で育った紘太では、そんじょそこらの女子ではなぜか反応しようもないというものだ。  エロい参考資料なら母の部屋に山となって転がっている。中学の頃には興味本位で覗いた時期もあったが、幼いながらもこれはダメだと見るのをやめた経験すらあったものだった。  立ち上がると、股間に違和感を感じてならない。出そうと思えばすぐにでも出せそうだが、これくらいのことならば忍耐で鎮めることだって可能だった。 「やば…! もうこんな時間…っ」  紘太は慌てて制服に着替えて顔を洗った。朝食にと用意されたサンドイッチをラップで包むと、それを鞄へと突っ込む。 「あっ、紘太! 持ってくなら早いとこ食べなよ!」 「わかった。行ってくる」  そう言いながら靴を履く頃には、股の間のそれも落ち着きを取り戻していた。  紘太は時計を気にしつつ、玄関の扉へと手をかけた。  なんとか始業ベルには間に合った紘太は、ホッとしつつ鞄を机の横へとかけた。 「おはよう、紘太。超ギリじゃん」  椅子へと腰を下ろした紘太の机へと手をかけて、紘太とは幼馴染みである冴島律(さえじま・りつ)は、揶揄うようにしてそう声をかけた。 「…寝坊した」  しかも、寝起きは最悪な状況で。  明日はもっと早く起きようと心に誓って、紘太はすぐ前の席に座る律を見返した。  律は「そうなの? 紘太にしては珍しいよね」と不思議そうに覗き込んだ。そのかわいらしいまでの眼差しは、女子には勿論のとこ、近頃は男子にさえも人気がある。  律の場合、女性的と言えば違う気がする。どちらかといえば中性的で、机に片肘をついて手のひらに顎を乗せたその顔は、どこかのモデル雑誌に載っていそうな風貌だった。 「明日は僕がモーニングコールでもしてあげよっか?」  ふふっと笑うその笑顔は、男女を構わず魅了する。今ならたぶん、二、三人くらい動揺を隠せずにはいられない人間もいそうだった。すぐ隣で鉛筆が転がる音がする。  この律は、小さな頃から紘太の馴染みであり、この可愛らしい顔立ちは昔から変わっていない。高校生ともなれば幼さが抜けて男性味が滲み出る年頃だろうが、それどころか最近では妙な色気すら帯びてきたようにも感じられた。  ふと、紘太の下半身にツキンと痛みが走った。 (…ん?)  朝のうちにさっさと処理しなかったからだろうか。紘太は心頭を滅却するがごとく、目を瞑ってみる。 「紘太、どうしたの?」  そんな紘太を心配して、律が覗き込んだ。それでも紘太は僧侶のごとく目を閉じていた。 「珍しく寝坊したみたいだし…風邪とか?」  律の細く冷たい手のひらが、ピタリと紘太の額に押し当てられた。 「う…、わ!」  手の冷たさに驚いたのか、紘太は自分でもわからなかった。イスをがたんと鳴らせて立ち上がると、 「わりぃ、ちょっと…トイレ…」 そのまま教室を出ようとする。 「…紘太?」  不思議そうに返す声が背中へと届いたが、紘太に振り返る余裕などなかった。  どうも落ち着かない。これもそれも、すべて今朝の母親が元凶のような気がしてならなかった。 (さっきのは一体、何だったんだ…?)  明らかに律の笑顔を見ていた時だった。  勿論のこと、今の今まで律を意識したことなど、紘太は全くといっていいほどになかった。むしろ、そんな扱いを周囲から受ける律の心情さえ、哀れに感じて気にしていたほどだった。だから、先ほどの衝撃は紘太にとっても予想外でしかない。 (やっぱり、朝のアレを放置したのが原因?)  誰もいないトイレの個室に入って、紘太は頭を抱えるようにして俯く。視線の先の、股の間のソレがひどく恨めしかった。 (ここで抜くか…? って、さすがに学校ではなぁ…)  結局、しばらく待って落ち着いてから、紘太は顔を洗った。平静を取り戻した紘太が席へと戻ると、もう既にホームルームが始まっていた。 「なんだ弘野、トイレか?」  ひとり遅れて手ぶらで教室に入った紘太へと、担任は声をかけたが、普段から素行は悪くない紘太の顔を確認しただけで、さほど気にすることもなく話を進めていた。  チラリと律が心配そうに振り返るが、目を合わせただけで、また前を向いた。  紘太は席に着く。  いつもは見慣れた律のその背中を眺めながら、紘太は口元に手を当てる。 (まさか、な…)  律と目を合わせたとたんに、不自然なまでに脈拍が乱れている。後ろめたさからかもしれない。  ドクドクと煽る心臓の音を意識しながら、紘太はその背中を見ないようにして窓の外を眺めたのだった。  まる一日、平静を保ちきった紘太は、休み時間ごとに会話を交える律と、なんら変わりなく接することができていた。  もしかしたら、気のせいかもしれないなと、紘太は今朝の出来事を振り返りもした。 (うん、きっと朝に処理しなかったせいだ。これからはちゃんと…) 「早く起きよう…」  自身を正すようにして、紘太の口からは自然と心の声がこぼれ出ていた。 「プッ! そうだね」  隣を歩いていた律が、そんな紘太の独り言に噴き出した。  律とは家も近所だから、学校からの帰るルートも同じだ。聞かれたことに気恥ずかしさを感じて恨めしく隣を見るが、横ではまだ笑い声をたてていた。 「今朝は心配したけど、トイレに行く暇もなかったみたいだし?」  そんなふうに勘違いされたのは幸か不幸か。紘太は何も言い返すことができないまま、 「じゃあ、また明日」 そう言って、分かれ道で律とは別れたのだった。 (帰ったら、とりあえず今晩は抜こう)  そう心に決めていた通り、紘太は久々にティッシュを用意して自身を慰めようとしていた。  本日の妄想の彼女は、スマホで見つけたエッチな女性が乱れる動画だ。  ワイヤレスのイヤホンを耳へとあてて、紘太は自身のソレへと集中した。 『アッ! アッ! アッ! アッ!』  打ちつけられる男性の腰の動きに合わせて、女性の喘ぎ声が響く。紘太も動画の声に煽られるようにして握り込むソレを固くさせていった。  目を瞑れば、脳裏には女性が淫らに胸を晒して蠢く、そんな妄想が浮かぶ…はずだった。  しかし、紘太の脳裏に浮かんだその顔は、悩める顔で頬を紅潮させて、息の上がった幼馴染の律の姿だった。 「……はっ?!」  あろうことか、紘太のそれはあっけなくも達してしまった。はぁはぁと肩で息を切らしながらも、愕然としたまま身体を硬直させてしまう。 (え…待て…)  今、自分は何を考えたのか。誰を想像していたのか。 (マジ…で?)  男で、しかも一番近しい親友を相手に吐精さえしてしまったことに、罪悪感すら芽生え始める。確かに律はかわいいし、男にだって見えないレベルだ。そんじょそこらの女性では勝ち目などないほどに…。 (だからって、まさか…)  けれど、もしかしたらこれは一時の勘違いなのかもしれないと、紘太は思い直した。 (律のことを、そんな目で見たことなど今までだって一度もないのだから、きっとそうに違いない)  紘太は、男性が男性を対象とした恋愛にはわりと理解があるほうだった。  なにせ我が家の本棚は、いわゆるジェンダーレス系のエロ本も数多くひしめいている。それどころか、母親の執筆する小説の殆どはBL小説という男同士の恋愛物語にあたり、どれも過激なほどの性的表現で溢れていた。紘太は母親が官能小説家だと思っている。  しかし、いくら我が家の本棚が母の大好きな本で溢れていたとしても、現実はなかなかそうはいかない。  紘太は自身へと言い聞かすようにして、手の中へと握り込んでいたティッシュのクズをゴミ箱へと放り込んだ。
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