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2.ラノベ
「もうお腹は大丈夫なの?」
登校時のバス停で顔をあわせた律は、先に待っていた紘太へと駆け寄るようにしてその隣へと並んだ。
紘太といえば、昨晩オカズにしてしまったその顔を直視するのは何だか申し訳ない気分だったが、バレては困ると必死の思いで普段通りの装いを試みた。
「別に、腹を下してたわけじゃねぇって」
バスに乗り、およそ二十分の距離の間を吊り革だけを頼りに立ってやり過ごす。
ふと、律が片手に持って読んでいるラノベらしき本が目にとまった。紘太もジャンルは構わず本は好きなほうだ。
「何を読んでるんだ?」
「え、何って、おばさんの新刊だよ」
「…っえ!」
表紙にカバーはかけられているが、母の書くものは性的な表現が露骨に描写されるような話ばかりだ。それどころか、現在主に活動しているのはBLというジャンルだ。
「何?」
驚く紘太へと、何かいけなかったかと律は聞き返す。
「いや、だってソレ、BLだろ…?」
律が好んで読むとは到底思えなかった。
「うん。おばさんの書く小説って、けっこう面白いんだよね。紘太は読まないの?」
「読まない…とゆうか、読んだことない…」
「えっ、嘘! 自分のお母さんの本なのに!」
「……親だからだよ」
どこに自分の親が書いた官能小説に酔いしれる息子がいるというのだ。と、紘太は半ば呆れるようにして頭一つ下の律を見下ろした。
「へぇ? そんなもんかなぁ?」
「いやとにかく…。バスの中でそういう本は、その…まずいんじゃないか?」
「まずいって、…あぁ。ベッドシーンのこと?」
律はそれでも平気そうな顔をして「もう何冊も読んできたし…」と呟く。
「でも本当に、そういったシーンも含めて面白いから、紘太も読んでみたらどう?」
律は、手にした本の内容とは真逆の、実に爽やかな笑顔を紘太へと向けた。
そもそも男子がBLを読んで楽しめるのだろうか。それとも、律はそういう趣向も持ち合わせているとでもいうのか。
そこまで考えて、紘太はまた良からぬことを妄想してしまいそうになる。
(いや、ダメだダメだ! 考えるな…思い出すなオレ!)
昨夜の妄想が再び甦りそうになった。
バスの天井を眺めて、頭を切り替えようと目に入る広告を片っ端から心の内で読み上げていく。
「…紘太?」
不審そうに律が呼ぶ声には気がついたが、しばらく紘太は知らないフリを決め込む。とてもじゃないが、下を向いてなどいられなかった。
普段から紘太が寡黙なタイプだということもあって、律は休み時間にも続けて紘太の隣で黙々と本を手に読み浸っていた。
その真剣な眼差しを見ていたら、紘太も帰ったら読んでみようかとさえ思ってしまう。
しかし、しばらくして律の頬がほんのりと赤らんでいることに気がついた。
「? …お前、熱でもあんの…?」
俯いて本を読む律を覗き込むと、律はハッと我に返って本を威勢よく閉じた。
「もう…! ちょっとは気を遣ってよ!」
律はパッと本を鞄へと仕舞い込んだ。
「は?」
「だって、分かってるだろ? 本の内容…」
頬を紅潮させて、律は困ったような顔で見上げてくる。紘太もそこでようやく律の気持ちが理解できた。
「…だから、言わんこっちゃない」
「だって! 急にそういう展開になるから…」
さすがに律でもベッドシーンが始まったら普通ではいられなかったようだ。そのまま顔を真っ赤にさせて、ソッポを向いた。
(やっぱり、律はBLに性的興奮を覚えてるのか? するとやっぱり…?)
律なら男受けも間違いないし、そちら側でも相手には困らないだろう。
(でも…)
紘太はモヤモヤと胸の内に湧き上がる感情を感じ取る。
律が女子と付き合っている姿は今まで見たことがなかったが、もしも相手が男だったならば…。そこまで考えて、紘太は更に胸のもやつきを大きくさせた。
(律を男に盗られるだなんて…)
それだけは確信のようにして、胸の奥へと痛みを覚えたのだった。
帰ってから母の書棚を覗くと、律が読んでいた本を見つけた。律は新刊だと言っていたが、まだ真新しいそれは刷り上がった際に送られてきた見本のようだった。
紘太はそれ以外にもいくつか書棚から母の名のある書籍を取り出して、こっそり自分の部屋へと持ち込む。まるで、父親の部屋からエロ本を隠して持ち帰る息子の気分だった。
風呂から上がって部屋に篭ると、律の読んでいた本を手に取った。
パラパラとページをめくっては、それらしきシーンを探した。
(この辺り?)
開けばどこも、「アッ」とか「う…んッ!」だとか、「やめて」「もっとぉ!」など、活字を見るだけでもドキドキしてしまいそうな言葉がページいっぱいに散りばめられている。
(まぁ、ここだけ読んでもまず理解はできんだろうな)
紘太は最初のページへと戻って、初めから読み進めていった。内容は、サラリーマンの男性がどこかの世界へ転生し、恋に落ちて結ばれていくといった内容だった。
紘太にはいまいちピンとこなかった。律はいったい、これのどこに面白さを感じているのだろうか。
(明日聞いたら、怒るかな…)
怒った姿を想像したら、なんだかそれも可愛くて、紘太はいよいよ自分が本当はゲイなんじゃないかとさせ自覚し始める。
それに、今日は変な妄想の末に、律を他の男に盗られる想像までしてしまい、どうにも虫の居どころが悪くて仕方がなかった。
まずこの本を理解しなければ、とても律の考えなど理解に及ばないだろう。
紘太はベッドに転がりながらも、寝落ち覚悟で真剣に読み始めたのだった。
案の定、その晩の夢に出てきたのは、律だった。
律はなぜか既に社会人で、紘太も新米会社員だ。そこへ先輩面したイケメンが登場して、律を口説きにかかっていた。もちろんのこと、紘太は夢でもそれが耐えられなくなって、律の腕を引いて男から遠ざける。
しかし、律は名残惜しげにその先輩を見つめる。そんなストーリーだった。
場所は変わって先輩と律は、何やら街中を歩いている。ラブホ街だ。その先輩は、嫌がる律をホテルへと引き入れようとしている。
「やっ、やめろ!」
紘太は思い切り叫んでいた。
ハイ、そこで起床。
もしかしたら、寝起きには本当に叫んでいたのかもしれない。
目が覚めて素に戻った紘太は、朝からベッドの上で頭を抱えるしかなかった。
そんな馬鹿げた夢を見た原因は、寝落ち寸前に読んでいたBL本が原因だろう。夢は色鮮やかに、紘太の記憶に留まった。夢の中で感じた苛立ちさえ、つい先程のことのように感じられる。
(いや、ただの夢だから…)
布団の中で、紘太は朝からため息を溢した。
でも、今この心に渦巻く葛藤は、まさに自分自身でしかない。
(律を他の男に盗られたくはない)
ただそう悟るほかなかった。
翌朝。
いつも通りにバス停で待っていると、律が声をかけてくる。
「おはよう、紘太」
「あぁ、律。おはよ」
今日も律は相変わらずかわいい顔をしている。この顔はいつも幼い頃からよく知っている、彼のありふれた表情だった。
けれど、近頃はふとした瞬間にそれが別人のように変わることもあった。
学校の正門を潜ったこところで、律は背の高い男性から声を掛けられた。紘太は思わず、今朝がた夢に出てきた先輩を想像してしまっていた。
「あ、先輩。おはようございます」
本当に先輩だった。
紘太はその、背が高くスマートな出立ちの男をマジマジと見やった。顔はまぁ普通より上といったところだろうか。髪の毛は短く清潔に保たれている。
「冴島は今日、来れそう?」
どうやら部活の先輩らしい。律は料理部に所属していたからその話だと紘太は推察した。
「はい。行きます」
「あー、じゃあ帰りに、ちょっとだけ時間いいかな?」
先輩はなぜか照れたような仕草をして、顎のあたりへと指を添える。
「帰りですか? …わかりました」
それだけ言い終えると、律は行こうと紘太の裾を掴んだ。
(えっ、なんでオレを引っ張るんだ??)
律の動作に疑問を感じつつも、紘太も先輩へと軽く頭を下げてその場を去ろうとした。が、思わぬ反感を買ったかのような視線を、その先輩から送られる。
確実に睨まれていた気がした。
(な、なんだぁ?!)
そんな先輩の姿が見えなくなった頃を見計らったかのように、律が足を止めた。もう紘太の制服の裾を掴んでいた手も離されていた。
「ねぇ紘太。今日の帰りは、部活が終わるまで待っててくれないかな…」
そうお願いする律の声は、どこか淋しげに響いた。
「あ、あぁ。別に構わねぇよ」
律はあからさまに安堵の色をみせると、教室で待っててくれれば良いからと言って、律は自身の教室へと入っていった。
始業前のベルが鳴り、クラスの中も皆が各自の席へと移動をし始める。律も席に着いて前を向いたものの、肘を突き顎を乗せた律は不思議なほどにぴくりとも動かなかった。
(律の様子がおかしい…。さっきの先輩は、訳ありなのか?)
紘太は同じ料理部に所属するという先輩と何かあるようだった。そんな律を心配に思いながらも、待っていてと言われたことを思い出して気を取り直す。
あとはただ、去り際の先輩から向けられた敵意を含んだ視線が、紘太はやけに気になってしまっていた。
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