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3.告白
『部活、五時半には終わるから』
律がそう言っていた時間を過ぎても、教室に律は戻ってこなかった。
今朝のあの先輩が律を引き留めているのだろう。困っている律の顔が思い浮かんで、仕方がなく紘太は教室を出て料理部の活動拠点であるキッチンルームへと足を向けた。
案の定、その教室には律とあの先輩だけが残っていた。何か話をしているようだ。
紘太は部外者だ。さすがにその場へ踏み込むのは躊躇われる。廊下で二人の話が終わるのを待つことにした。
「嫌ですっ!」
と、そんな律の声がはっきりと響いた。
何事かと思い、紘太はそっと廊下から中を覗いた。そこには、両腕を先輩に取られた律の姿があった。
(なっ! あの先輩、何をしているんだ?!)
紘太は踏み込みたい気持ちをグッと堪えながらも様子を窺った。
「もう分かってるだろ、俺の気持ち…。好きなんだ…! 付き合ってくれ!」
両腕を拘束した状態で言う台詞じゃないし、そもそも何故、男が男に告白してるのか、紘太には事情が掴めなかった。
「だからっ! 無理だって言ってるでしょう!」
律は逃れようと踠くが、そうすれば逃げられたら困るとばかりに先輩は腕を捉えている…といった状況らしい。
紘太は律の立場を考えて、そこへ踏み込むべきかと迷った。相手は律の部活の先輩でもある。
やがて、先輩は痺れを切らしたのか、はたまたトチ狂ったのか、腕力だけは優勢のようで律を広いその作業テーブルへと押し付けた。
そんな展開に、さすがに紘太は無意識ながらもその教室へと足を踏み入れてしまっていた。
「律っ!!」
バタンッ!と勢いよく扉を開ける。
しかし開いた扉の先には、教室の床にひっくり返った先輩と、息を切らした律の姿があった。
(……え?!)
律の制服は揉み合いの末に乱れた様子で、前のボタンがどこかへ飛んでしまっている。
「ど、どういう…こと?」
一瞬の出来事で紘太は理解が追いつかなかった。
「…蹴った」
律はぽそりとそう呟いた。
股間を押さえて呻き声を漏らしながらも、その先輩は立ち上がると逃げるようにしてその教室を出て行ってしまった。
律は無表情のまま身なりを整えると、「帰ろう」と紘太へと声を掛けた。
先ほどの、事の顛末はこうだった。
両腕を取られてしまい、腕力では敵わなかった律は、あろうことかその先輩の股下を蹴り上げだのだった。
先輩が倒れ込んだのは、律に殴られたとかテーブルにぶつかったとか、そんなことではなく、男の急所への攻撃に悶絶した結果のことだった。怪我を負わせたといえばその急所のみだろう。しかし先輩の受けたその痛みを思うと、紘太は同じ男として哀れみを感じずにはいられい。
けれど、あの先輩が律を押し倒して何をするつもりだったのだろうと考えれば、紘太は怒りさえ込み上げてきそうだった。帰りのバスでは吊革に手をかけた指が、爪が食い込むほどにぐっと握り込んでしまう。
(律だって怖かっただろうに…)
紘太はハッとして、紘太の立つ前の席へと座る彼を見下ろした。
律は黙ったまま、窓際から変わりゆく外の景色を眺めている。景色を眺めたまま、じっと遠くを見つめる律の表情は、相変わらずツンとした強さを感じた。
(強がってるんだろうな)
律は少なからず、こうなる予感を今朝から感じていたのだろう。先輩と会った後、紘太の制服の裾を引いて歩いていた律の後ろ姿をふと思い出した。
律が『待ってて』と言ったのは、律もまた怖かったからだ。
もっと早くに自分があの場所へと踏み込んでやれば良かったと、紘太は今更ながら後悔してしまっていた。
律は祖父が外国人でクォーターにあたるから、その日本人離れした端正な顔と相まってとてもキレイな顔をしている。これだけキレイな男なら、勘違いしてしまう男子が現れてもおかしくはない。もしかすると、紘太が知らないだけで、今までにだってこんなことがあったのかもしれなかった。
不意に、律が窓から視線を外して紘太を振り返った。紘太の心臓がギクリと跳ねる。
「…ねぇ」
律は、おもむろに口を開いた。
「今日、紘太ん家に泊まっても、いいかな?」
律とは幼馴染だったから、お互いの家に泊まることなどこれまでにも幾度となくしてきたことだった。
けれど、今日の律はどこか違うような気がしてしまう。
(心細いのか…?)
律は、紘太と同じで一人っ子だ。
「ウチは別に構わわねぇよ」
(ちょっと、自分のアソコが困ってしまうかもしれないが…)
紘太は心配そうに見上げる律の頭をくしゃりと撫でつける。
「とりあえず、一旦家に帰ってから来いよ」
「…うん、わかった」
バスのステップを降りると、律はすぐさま走り出したが、思い出したかのようにして突然立ち止まって振り返る。
「紘太ぁ! ちゃんと、おばさんに伝えておいてよね!」
そう言って手を振っていた。
焦って帰る必要などないものを…と、少しでも元気を取り戻した様子の律に安堵しながら、紘太はその背中を見送った。
(律に何か、うまいものでも食わせてやるか)
紘太は冷蔵庫に残った中身を思い出しながら、紘太もまた家路へと足を急がせていった。
《ピンポーン》
夕方の六時を回る頃合いに、律は家へとやって来た。手には小さなスポーツバッグを持っている。
「叔母さんには、ちゃんと伝えてくれた?」
「あぁ。つか、今は言っても何もしないぞ、あの人は」
今は締め切り前だから、家事も全て放棄している。そんな母が急に動きだすとすれば、気晴らしに家の掃除を始めるくらいだ。
「締切り前なんだ? 今晩のご飯はどうする?」
「いま、肉じゃがを作ってる」
「やった! 紘太の肉じゃが〜!」
紘太は料理好きだった。母の代わりに食事を用意し始めたのがきっかけとなって、高校生になる頃には料理に目覚めてしまっていた。実用的だからと、今でこそ趣味にもなっている。
「料理部(ウチ)に、入ればいいのに…」
そう呟いた律に、紘太は先程の先輩を思い出してしまう。後輩にタマを蹴り上げられてしまえば、さすがに料理部には顔を出すこともないだろう。
それに、律からはこれまでも再三にわたって料理部には勧誘されていた。けれど、帰ってからも毎日料理をする紘太にはそれほど魅力的な部活動には思えなかったのだ。
そう思いはしていたが、紘太はしばらく考えてしまう。
「…まぁ、入ってもいいけど」
「え…ホントに? やった…!! じゃあ来週、月曜日に入部届もらってくる!」
先輩の動向も気にはなったが、もしかすると律の周囲には危険な存在がその先輩だけではないような気がしてならなかった。
「叔母さん、お邪魔しまーす」
「はぁーい、いらっしゃい。りっちゃん」
書斎から出てきた母へとニコニコと挨拶をして、律は持って来たスポーツバッグを二階の紘太の部屋へと持っていく。
「なぁに? りっちゃん凄くご機嫌じゃない?」
何かを探るように、母が腕で紘太の脇を突いた。
「…だと、良いんだけどな」
それだけ言って、紘太は夕食の準備の続きへと取り掛かった。
律がはやく元気になれば良い。そう願うように、紘太はもう一品ばかりと冷蔵庫を開いた。
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