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4.お泊まり
風呂から上がったふたりは、ソファーに凭れかかりながらゲームに夢中になっていた。
リビングと続きになったダイニング奥のキッチンでは、食洗機がまわる音だけが響いている。紘太の母は締め切りに追われて、すっかり書斎へと引き篭もっていた。
紘太の父の帰りはいつも二十一時を回るから、リビングを紘太と律が占有してのゲーム大会が行われていた。
「やったぁ! 今日は僕がベッドだ!」
お互いの部屋に泊まる際は、いつもゲームの勝敗でどちらがベッドを使うかを決めている。
紘太は自分のベッドを取られてしまい、ヤレヤレとゲームのリモコンをソファーへと投げた。
「ただいまー」
ちょうどゲーム大会の終わりを告げるようにして、紘太の父親が帰宅を告げた。リビングへと入ってくる。
「おかえりなさい、おじさん。お邪魔してます」
「おや、りっちゃん。いらっしゃい」
律がいつこの家に居ても、紘太の父親は穏やかな笑顔を律へと向ける。父親にとっても律は、幼いころから我が子と共に育った家族同然の扱いだった。
「あれ? 紘太、母さんは?」
「締め切り。呼んでくるよ」
「あー、いいよ。自分でやるから」
そう言って、別に寄せられていた肉じゃがをレンジで温め始める。鍋に残った味噌汁にも火を入れた。冷蔵庫からはビールまで自分で運び始める。
この家庭は不思議と皆が自立している。律は自分の家庭と比べて、毎度の事ながらついつい感心してしまうのだったら、この家庭に反して律の父親は、全てにおいて母親に任せきりなのだ。
「じゃあ、オヤスミ」
紘太は父親にそう声かけると、律を連れて二階の自室へと移動していった。
部屋に入った途端にベッドへと横になった律は、ベッドの横へと積まれた本の山に気がついた。その一番上に積まれた本を一冊だけ手に取る。隣に敷いた布団へと寝転ぶ紘太へと、律は体勢をかえてゴロンと寝返りを打った。ベッドの上から、紘太を見下ろす。
「ねぇ、紘太。コレ、いま読んでるの?」
そう言って紘太に示したのは、昨夜、寝落ちしながらも読んでいたあのBL小説だった。
「あっ!」
まるでエロ本でも見つけられたかのように慌てた様子の紘太が、律から本を奪おうとする。
「あはは! いまさら僕から取り上げたって、中身ならもう知ってるんだし」
それもそうかと、紘太は乗り上げたベッドの上で、二人はピタリと動きを止めた。
「はは…」
気がつけば、律は寝転がった状態で紘太を見上げている。笑った顔のまま、律は固まっていた。その上へと、被さるように腕を突いた紘太は、まるで自分が律を組み敷いたかのようだ。
紘太はすぐさま我に返ってベッドから降りた。
「悪い…っ」
思わず口から出たのは謝罪の言葉だったが、何に対する謝罪なのか、ふたりの間に変に無言の時間が流れてしまった。
律にとっては、男に覆い被さられるのは今日で二度目となってしまった。
「なんで謝るの?」
律は起き上がることなく、首の向きだけを変えて紘太へと向ける。
「…だって。お前、今日あんなことされたし、今のは怖かっただろ…?」
迫り上がる鼓動を取り繕うように、紘太は先輩とのことを切り出した。
「怖くなんか…」
そう返す律は、どこか苦しげに眉を寄せる。
「あんなふうにされたら、誰だって怖いだろう」
強がる律へと、紘太は胡座を組み直して律と向き合った。その真剣な眼差しに律も自然と素直になる。
「うん…。…だから紘太は、いま、僕を怖がらせたんじゃないかって、思ったの?」
律は淡々とそう話す。それが驚くほどに冷静な声音に、紘太は不思議に思った。
しかしそう言われた反面、律の言葉にはどこかそうじゃないと引っかかりをおぼえてしまう。
「いや…? あ、そうだった…はず?」
「…はず?」
紘太は自分でも気持ちの整理がつかないでいた。
「へぇ…?」
「な、なんだよ…」
律の意味深な眼差しに、紘太は思わず怯みかける。
「なんだ、僕の勘違いか。てっきり、僕のことを意識したのかと思った」
(そう…! まさにそれだ!)
指を弾きそうになったが、寸前で止めた。
紘太は律への想いだけは知られてはいけないと、慌てる様にして口調を普段より荒げてしまっていた。
「バっ…バカか、お前! もしそうなら、今頃お前は…」
言ってからハッと気がついた。律がひたすら今日の出来事で怖がっていたのを知っているのは自分だけだと言うのに、なんて配慮に欠けた発言をしてしまっているだろう。
「ごめん、お前を怖がらせるつもりは…」
「ううん。怖くなんかないよ。だって、紘太だし」
紘太がいつも使う大きな枕を抱き抱えて、律はそこに顎をのせたまま呟いた。
(そうか、俺のことをそうやって見ないよな。律は…)
紘太の胸のあたりが、ズキリと何かで抉られたような痛みを伴った。
「そもそも、あの先輩に限らず誰だって男はみんな怖いよ。でも、紘太は別だ」
律は、ふふっと笑うと、
「紘太だったら、一緒にだって寝られるよ」
そう言って、律は更にコロンと寝返りをするようにベッドから降りると、紘太の布団へと潜り込んだ。
(……っちょ?!)
紘太は度肝を抜かれてしまう。
潜り込んだ布団から、顔だけぴょこんと覗かせた律は、キレイな笑顔を覗かせて紘太を見上げる。
「小さい時みたいにさ、一緒に寝ようよ」
そう言って、その腕は紘太の腕を引っ張って同じ布団の中へと引き倒した。
「うわ……?!」
律は足まで使って、紘太が起きられない様に抱きつくと、胸元へとピタリとくっ付いて本当にその場で寝ようとすらしていた。
「お前なぁ…っ!」
(高校生にもなってかよ!)
そう言おうとしたが、胸に引っ付いた律を引き剥がそうと見下ろせば、律は苦しげに眉根を寄せてその胸へと頬を押し当てていた。
紘太は思わず声に詰まって、そんな律を黙って見下ろしていた。
(今日は相当、怖かったのか…)
「…勝手にしろ」
口では文句をこぼしながらも、紘太はその布団からはみ出た律の肩へと、布団をそっと掛け直してやった。
ピタリとくっついた律の寝息を聞きながら、紘太はかれこれ一時間ほど耐えていた。
(これは…何の試練だ…?)
律は眠りに落ちていったん紘太の胸から離れたものの、今度は紘太の背中へと抱きつくようにして眠っている。律の温かな寝息が紘太の背中へ直接届いて、紘太は全身で緊張していた。すると、背中から「うーん」と苦情のように声が上がった。
律を意識し始めてしまったはいいが、律のこの無邪気さには紘太もほとほと困ってしまっていた。
隣に大きな獣がいるなど知る由もない律は、相変わらず無防備にもスヨスヨと寝息を立てている。信頼しきったようなその態度が、逆に紘太を苦境へと立たせていた。
紘太は諦めるようにしてゴソゴソと寝返りを打つと、律と向かい合わせになった。こうなってしまえばもう、開き直ってとくと律の寝顔を拝んでやろうとさえ思えてくる。
律と向き合ってその可憐なまでの寝顔をまじまじと眺めていると、普段気づかないような些細なことにも目がとまった。
(あれ? 律のまつ毛ってこんなに長かったっけ?)
紘太はつい触れたくなって指をそっと近づけてみる。けれど触れてしまえば起こしてしまいそうな気がして思い留まった。ちょっと赤く熱ったような頬は、お化粧を施したかのような鮮やかさだ。唇も、小さいのにフヨフヨとした感触を紘太に想像させた。
その唇が、ぽそりと寝言を呟く。
「紘…太…ぁ」
その時は決して邪な感情を持って見ていたわけではなかったが、自分の名前を呼ばれたとたん、紘太の下肢にツキリと痛みが伴った。
「…太。紘太ぁ…」
繰り返し呼ぶその甘えるような声は、どこか艶めかしく聞こえるのは紘太のせいなのか。
紘太はドキドキと胸を高鳴らせながら、目の前の律の頭をそっと撫でつけた。
「だい、すき」
ポソリと律が呟く。紘太は耳を疑った。
しかしそれを肯定する答えなどあるはずもなく、紘太の鼓動は更に速さを増してゆく。
(あ―――、わかんねぇ…)
『大好き』なんて、律の口からは幼い頃から幾度となく聞いてきた言葉だった。今でも時々、ふざけたようにして口にする事さえある。
決して紘太の望む意味ではないはずだ。
律の『大好き』は信頼からくるものだと、紘太は勘違いしないようにと自身に強く言い聞かせた。
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