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6.変化
次の日のバス停では、律は顔を合わせるなり露骨に怒った顔で、紘太と向き合っていた。
「もう! ちょうど委員会も終わった所だったのに帰っちゃうなんて、もうちょっと待ってくれても良かっただろ?!」
「悪かったよ…」
謝りながら、紘太は借りたままだった本を鞄から取り出して律へと差し出した。それを律は、奪い返すようにして取りあげる。
「で、どうだったの?」
「どうって…」
紘太はつい、昨日の三年の先輩を思い浮かべる。
「本、読んだんでしょ?」
(あ、そっちの話か…)
「…面白かったよ」
まだ1ページすら読んでいなかったが、律も笑っていたことだからと、適当に感想を言って誤魔化そうとした。
「……面白かったの?」
「あ…あぁ、面白くて、笑えた」
「ふぅん…」
律はそのまま黙ってしまった。そして時間通りにバスがやってきて、昨日と同じように律はさっさと先に乗り込んでいく。
いつもと同じようにバスの中で横に並ぶと、隣からクスッと笑う声が漏れ出た。
「…何?」
さっきまであんなに怒っていたのにと、紘太は不思議に思って問いかける。すると律は、返したばかりの本を片手に笑いを堪えているようだった。
「本が、ふふ…面白くて」
「へぇ? あっいや、面白いよなそれ…」
読みもしなかった本の内容を取り繕いながら、紘太は話を合わせると律は更に笑いを堪えるようにして本へと顔を埋めていた。
休み時間になって、教室へと律を訪ねてきた上級生がいた。廊下で待つその上級生から伝言を言付かった女子が、“かっこいい”だのキャーキャーと騒ぎながら律のところへとやってくる。
「真野先輩が、冴島君のこと呼んでるよ!」
「え? あ、ホントだ」
律は廊下を確認すると、慌てるようにして廊下で待つ男のところへと駆けて行った。
その男は、昨日の委員会で律と話していた相手だった。
何やら書類を受け取って、丁寧に頭を下げている。律は昨日と同じようにその彼へと笑顔を向けて、教室へと戻ってきた。
紘太の中には、何とも言えない、嫌な気持ちが込み上げる。
「…何の用事だったんだ?」
紘太はちょっと不機嫌になりながらも、それすら押し殺すようにして律へと聞いた。
「え? …提出した書類の、返却だけど…?」
「ふーん」
ただ聞いただけだとでも言いたげに、紘太はそれきり押し黙っていた。
律は不思議に思いながらも、紘太の様子をじっと観察する。
「…何だよ」
その熱心なまでの紘太への視線に負けて、紘太は律に向かって文句をこぼした。
「なんか紘太…、怒ってない?」
「別に…」
紘太は不機嫌な気持ちを隠すようにして、律からの視線をかわした。
「ほら!」
律は今度は更に顔を近づけて、食い入るように紘太の顔を覗き込んだ。
(近い…っ)
律の顔にピントすらあわないほどに、律は顔を近づける。
「違うって…! ただ、あの先輩とずいぶん…楽しそうだなって」
紘太はつい律の勢いに負けて口から本音が滑ってしまった。
「あー…、それでね」
律は全てを見通したかのように、紘太の前で腕組みをしてみせた。
「で? 紘太は、僕があの先輩のことを好きだと思ったんだ?」
目を据わらせた律が上目づかいに、下から紘太のことを見上げている。紘太は、観念するようにして開き直った。
「そうだよ。…あんな嬉しそうに笑ってたら、相手に気があると思われるだろ。気をつけた方が…」
言い終わるやいなや、紘太の頬へとビンタが飛んできた。
教室中が一斉に紘太達を振り返る。
「何だよ! 何も叩くことなんか…!」
律は紘太をキッと怒った顔で見上げると、すぐさま教室を飛び出て行ってしまった。
「律…!」
クラス中が、兄弟喧嘩が始まっただのと騒ぎ立て始める。けれど紘太には、周囲の喧騒など一切耳に入りはしなかった。ただ自分の吐いた言葉にすら愕然としてしまっていた。
(嫉妬心を律にぶつけるなんて…)
律の様子がおかしかった。紘太を思いきり叩いた律のほうが、逆に苦し気に涙ぐんでいた。
やがて始業のベルが鳴ったが、その時間は律も教室には戻ってはこなかった。
(でも、怒ったってことは、…図星だったってこと…か?)
紘太は叩かれた頬に手を当てて、まるで反省でもしている猿のように机へと頬杖をついていた。
(だとしたら、言い過ぎたな…謝らないと)
律に謝らないといけないと思えば、律の好きな相手すら認めてしまうようで悲しくもなる。
紘太は実質、今日が初めての失恋の日となったのだ。
いやまだ、告白して振られたわけじゃないんだから、失恋とまではいかないのかもしれないが。
(でも、同じ事だ)
授業が終わり、次の授業までの空き時間の間も、紘太は窓の外をぼうっと眺めていた。
しばらくそんな時間を過ごしていると、机の前に立つ人影が現れる。
突然、その人影に『ダン!』と紘太の机を手のひらで叩かれた。紘太はびくりとして、頬杖から顔を上げる。
そこには律が立っていた。
「あ、…律。さっきは…ゴメンな」
紘太は真っ先に浮かんだ謝罪の言葉を、目の前の律へと投げかけた。
叩かれた側が先に謝るなど、一般男子ならばあまりありえないことだろう。でも、紘太の言葉が先に律を傷つけたことには変わりなくて、とにかく紘太はすぐにでも律に謝りたかった。それで律の心の傷が少しでも癒えてくれるのを願うしかない。
「いいよもう…」
律は紘太の謝罪は受け入れた様子で、そのまま前の席へと座って背を向けた。いつもはスラリと伸びたその背中が、らしくなく猫背に曲がって見える気がした。
授業の開始を報せる鐘は鳴ったが、内容など全然頭に入ってこなかった。目の前に座る、律の背中だけがしっかりと紘太の目に焼きつくだけだった。
その日の帰りのバスは、帰り道を共にするもお互い黙ったままだった。
けれど別れ際になって、明日は紘太の家に行ってもいいかと律から言ってきた。
明日は学校も休日だ。断る理由なんて浮かぶはずもない。むしろ顔を合わせていたほうが、このまま悶々と休日を過ごすよりも遥かに建設的だと紘太は思った。
律には大丈夫だと伝えて、いつもの分かれ道で二人は別れた。その時は、明日こそは律の笑顔が見られればいいと、遠くなるその細い背中へと願った。
でも、このままいくと明日は、律からの、“好きな人の恋愛相談”というルートに乗りかねない気がして、それも当然のことながら紘太は全く気が乗れずにいた。
だから、明日の紘太はとにかく押し黙って過ごそうと決意する。もともと無口なタイプだから、律だってそれほど気にはならないだろう。律も自身の心の内を話せば、沈んだ気持ちもやがて癒えるだろうと考えた。むしろ律が、『こんなヤツに恋愛相談なんかしてバカだった』くらいに思えばいいと、紘太は投げやりにもそう思ってしまっていた。
次の日。
《ピンポーン》
玄関のチャイムが鳴り、律が紘太の家に到着したことを告げた。玄関を開けて律を出迎えた途端、紘太は思わずドキリとしてしまった。
今日の律は、ちょっと大人っぽい装いをしている。唇も、いつもよりふっくらとして見えて、どこか色気さえ漂わせていた。まるで恋する乙女のようだと、紘太は内心思いながら気落ちするも、本人の顔色は至って良いことにだけは安堵できた。
「おう」
簡単に挨拶を交わして、律を中へと招き入れた。
「おじさんと、おばさんは?」
静まり返った家の中の様子に、律は紘太へと尋ねる。
「ようやく締め切り明けたからって、ふたりで取材旅行に出かけた」
「ふーん。やっぱり仲、良いんだね」
紘太しか居なくても、律はお邪魔しますと呟いて靴を脱いだ。
「はいこれ、サンドイッチ。お母さんから」
律から差し出された袋の包みを受け取って、紘太は礼を言った。
いただいた昼食はキッチンに置いて、紘太と律は誰も居ないリビングのソファーへと座り込んだ。
「ゲームする?」
律はいつものようにベッドの争奪戦を始めるのかと聞いてきた。
「いや、朝からそんな気分じゃないし。お前は…何で今日、うちに来たかったんだ?」
そう言ってしまってから、また紘太は自分から地雷を踏んだことに気がついた。
(しまった…! 自分から相談事を誘導してどうするんだ俺は…!)
紘太は後悔を抱えながら、ついでに頭も抱え込む。
「話したくて」
「……………」
終わったとばかりに紘太は肩を落とした。
「話って…なに…」
紘太はもう諦めて腹を括るしかなかった。
(あぁ、俺はこれから貝になる…)
「なんか…紘太、勘違いしてるみたいだから言っておきたくて」
(…勘違い? まさか“あの先輩”を好きなのは違うとでも)
紘太は思わず身を乗り出す。
「勘違いって…?」
「うん。あのね? 前から思ってたんだけど、おばさん…弘野サエの書くBLは、官能小説じゃないからね」
「……は?」
「だから、弘野サエのBL書籍は、官能小説じゃなくて耽美小説の部類だってこと」
(官能小説じゃなくて、耽美小説?)
紘太は目が点になる。
何が違うというのだろうか。
「だから、エロ雑誌的なのが官能小説で、その点、美を追求したのが耽美小説、かな」
「……そう…なんだ?」
「うん、そう」
微妙な沈黙が二人の間に続いた。
「なんでそんな誤解を、わざわざ解こうとしたんだ?」
本当に、素直に沸いた疑問だった。
「だって…。ようはこの間だって、僕が官能小説…つまり、エロ本ばかり普段から読んでて誘ってるように見えるから気をつけろって。紘太はそう思ったんだろ?」
“この間”とは、先日、部活で律が先輩に押し倒された件のことを指しているようだ。
そこでようやく紘太は、自分がいきなり律にビンタされた理由が掴めた。
(要するに、律がエロ本好きで気を持たせるような真似をしてるから、自業自得で襲われたんだって、律にはそう思えたのか…)
だから委員会の先輩にも自分から気を持たせているんだと、律にはそう聞こえてしまったようだった。
「はは…なるほど」
あの時叩かれた頬の痛みすらをも思い出して、紘太はその頬へと手のひらをあてた。
(俺はただ、可愛さ故に相手をその気にさせてしまうから気をつけろ、という意味だったんだけど…)
どちらにしろ、似た意味ではある。律ならば言われたくもない言葉でしかないだろう。
「俺は、てっきり…」
「てっきり?」
「…いや! お前が…危ない目に合うのは俺も嫌だから…」
それは本音だった。
律からは、ふぅ、とため息が返ってきた。
「まぁ、紘太に心配かけたのは悪かったと思ってる。次からは僕も、気をつけるよ」
無事、事なきを得たことに、紘太は露骨に安堵してしまっていた。深いため息が勝手に溢れ出ていた。
そんな休息も束の間に、律は本題に話を移す。
「…それとさ、真野先輩のことだけど…」
(一瞬で変なルートに入ったな…)
安堵した途端、また困難な話題へと話が戻ってしまって、紘太は思いきり項垂れていた。
「………なに?」
項垂れたまま短く、今度こそ諦めるようにして、目の前の律へと問い返した。
「僕、別に先輩のこと、好きじゃないから」
「―――――――えっ!」
紘太の想像を遥かに越えた言葉だった。
思わずバッと顔を上げると、律はそんな紘太の反応に対してクスクスと笑い始める。この笑い方には何となく覚えがあった。
(そうだ、バスの中で…)
昨日の朝のバスの社内で、律が本を片手に笑いを堪えている姿と重なった。
「ほんと、紘太って昔っからそうだよね」
律は笑いのツボにでも入ったのか、その時の何かを思いだしては笑い声をたてた。
紘太といえばそんな律に、心の内を見透かされたような気分にさえ陥ってしまう。
(本当のところ、律はどこまで俺の気持ちに気づいてるんだ…?)
ハラハラしながらも、紘太は律の言葉の先を待った。
「僕の心配ばっかりしてる」
(あ、なんだ…そういう…)
それは、幼馴染の親友らしい会話だと言えた。
けれど、律が続けた言葉は、親友という関係にはとても似つかわしくない言葉だった。
「そんなに心配されると、…僕だって勘違いしたくなるよ」
そう話す律の言葉は、紘太にはまだよく意味が理解できなかった。
律は隣に座る紘太の顔を覗き込んだ。ソファーの縁へと手をかけると、少しだけ紘太へと身を乗り出す。
「律…?」
以前そうしたように、顔に影がさすほど近づいたかと思えば、律は紘太の唇へとキスをしていた。
(……え?!)
紘太の心臓は見事なまでに跳ね上がった。律からの突然のキスに、動揺よりもむしろキャパオーバーで固まったまま、目だけが律を見返していた。
(今、何が起こった…?)
紘太の唇から離れた律は、顔を顰めつつも固まった紘太の顔を覗き込む。
「…ねぇ。少しは、何とか言ってよ」
(何とかって…)
紘太は弱ったように眉根を寄せると、律は今度はムッとした顔になった。
「…僕では、嫌だった?」
「………いやっ!」
「イヤ?」
律は、あからさまに眉根を寄せる。
「そうじゃなくて…!」
紘太はやっと動いた身体で、今にも泣き出しそうな顔をした律を両腕で覆い隠した。さっきまで動かなかったぶん、反動なのか力の加減がきかないほどに、その細い身体を強く抱きしめていた。
「う、んっ…! 痛いよ、紘太」
「あ、ゴメン」
今度はやんわりと掴んだ両腕で律をホールドすると、紘太は腕の中から見上げる律に吸い寄せられるようにして、返事のかわりに唇を重ね合わせた。
キスなんて初めての経験だったが、どこで得た知識なのか覚えがないながらも、身体は正直なほど勝手に律の唇の感触を楽しんでいた。
確かめるように紘太はその上唇を甘噛みしては、下唇を舌で拾う。律の口内へと入り込めば、律の舌と合わさってその唇へと吸い付いていた。自ずと、それが自分のずっと欲しかったものだと知る。
「ふ…ぅん……っ」
律は大きな身体に押されるようにしてソファーへと倒れ込んだ。
律を見下ろすそんな紘太の顔は、幼い頃から誰よりも知っているはずなのに、見知らぬ男の顔のようにして映る。
律は思わずびくりと肩を縮こませた。
「まだ、キスしててもいいか?」
紘太は堪え難くも熱い吐息を耳元へと吐きながら律に囁くと、今度は律のほうが腕を伸ばして紘太の頭を引き寄せた。唇同士が重ね合わさって、二人の吐息も次第に熱量をあげて重ねられる。
二人以外は誰もいない部屋で、紘太と律はただ無心になって互いの唇を堪能し合っていた。
「紘太…。もう、唇が腫れちゃう」
ぐいっと襟元を引かれて、紘太は我に返るようにしてその唇から離れた。
「ごめん」
今日、紘太は何回『ごめん』と呟いただろうか。
そう考えれば恥ずかしくもなりながら見下ろすと、律は恥じらうように横を向いたまま頬を真っ赤にさせていた。
「律、お前は相変わらずかわいい」
小さな頃から可愛いのは分かっていたことだが、昔と今では不思議と感じ方が違っているような気がした。
「紘太だって、かわいい」
律は紘太を見上げてまたクスクスと笑い始めた。
「さすがに『かわいい』は、俺には似合わない」
「そんなことないって、ほらあの時も」
律はそう言って、バスの中での事を紘太に話して聞かせた。
律から借りた本。『異世界の扉を開けたらそこは現世だった』というタイトルだったか。あれはタイトルの割に哲学的な世界観で、面白いというよりも切ないラブストーリーものなんだそうだ。
読んでもいない本を持ち帰り、律に合わせて面白くて笑えたなどと話す紘太は、さぞ滑稽に映ったことだろう。
「本を借りたいとか…あれだって、僕を待つための口実だったんでしょ?」
(あ、そこもバレてたんだ)
今になって、なぜ律があんなに笑っていたのか、紘太はようやく理解できた。
(でも、あの本を読んでる律だって、あんなに笑ってよな?)
あれはいつの事だったかと記憶を辿っていたら、律が紘太を枕代わりにして寝転び始めた。
そんな甘えるような仕草は昔から変わらなくて、つい先程までしていたキスさえ嘘のようにも思えてしまいそうだ。
けれど、どこか変わりきれないように見えても、二人の関係は紘太も知らない間に変化してしまっていた。
「お前は、いつから…」
紘太は、心に思っていた疑問を口にする。
(律は、いつから俺を好きだと自覚したんだろう)
「あのね」
律は仰向けになって紘太を見上げる形で、そんな紘太の疑問に答え始めた。
「いつからなんてわからないよ。気がついたら、僕は紘太が好きだったんだ。高校に入ると、女子が読んでた本の中におばさんの本を見つけて、貸してもらったらすごく共感が持てたんだ」
(……)
「なのに、紘太は僕が真野先輩を好きだとか勘違いしちゃうし…」
「だから、ごめんって」
「それにまだ聞いてない。返事」
「え」
(そんなの今更…)
すっかりリラックスモードで寝転がり、下から見上げる律はやっぱりとてつもなく可愛かった。前髪が乱れて額が全開になる。今日はどことなく大人びて見えた律だったが、今は幼さが垣間見えるようで、普段よりとても可愛らしかった。
「お前が他の男を好きって聞いた時は、どうにも嫌な気持ちだったし、あの真野先輩に笑いかけてるお前を見たら、無性に腹も立って…」
そんな話が聞けるとは思わなかった律は、驚きながらも紘太の下で顔を真っ赤にさせてしまっていた。
「すっごい赤いぞ、律」
「もう、バカ…!」
また紘太は、そんな文句を言う律の口を塞ぐ。
もうただの親友ではなくなった二人は、その唇の感触を通して、互いの関係が次第に変わっていくのを感じて入っていった。
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