春死なむ

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 決行の日は、拍子抜けするほどあっさりとやってきた。  直澄が幻乃に追手を差し向けることもなければ、俊次が意志を変えることもなかった。幻乃が吹き込むまま、俊次は旧幕府陣営の面々に話を取り付ける。  何も難しいことはない。欲しい情報を欲しいときに渡して、あなたならばできると背を押してやればいいだけだ。それだけで淡々と、計画通りに、転がり落ちるように物事は進んでいく。  不満をぎりぎり抑えつけてようやく回っていたらしい世の中は、火種ひとつで呆気ないほど簡単に燃え上がった。不和が不和を呼び起こし、争いがさらなる争いを呼んでいく。幻乃たちが討ち入りを決行するより前に、元々因縁があった藩同士が全面的にぶつかり合ったという話まで聞こえてくるほどだった。  幻乃がここに来なくとも、きっと他の誰かが同じことをしただろう。しなくても同じことが起きたかもしれない。平穏など見せかけの、薄氷の上のものでしかなかったのだとよく分かる。    眼下では、絶え間なく剣戟の音が響いていた。不気味なくらい大きく見える満月が、炎と血に濡れる人々を見下しながら、夜空で煌々と輝いている。  見慣れた三条の屋敷が燃えていた。  銃撃部隊は町を制して、今ごろは外からの援軍を食い止めるために戦っている頃合いだろう。今この場にいるのは限られた人数だけ。藩主の首を獲りにきた精鋭たちと、それに対抗する武士たちだけだ。  大志に燃える者、新しい時代を目指す者、合意なく変わりゆく世を恨む者。――そして、おそらくは幻乃同様、死に場所を求めて集った者。それぞれがそれぞれの思いを抱えて一堂に会するさまは、この戦がひとつの時代の変わり目になることを、まざまざと予感させた。    松明のか細い炎がたなびいては、ぶつかる人々の影を大地に映し出す。太鼓(やぐら)の囲い柵に腰掛けた幻乃は、ひとり足を揺らしながら、燃える戦場を上から眺めていた。    屋敷が燃えていた。  町が燃えていた。  刻一刻と増えていく死体が、無情な炎に焼かれていた。  焦げ臭さと煙の匂いに、鼻腔にこびりつくような濃い血の匂いが混じり合う。  今この場所では、生死の境がきっとどこよりも曖昧だ。激情を剥き出しにした者どもが、我先にと命を散らしていく様は、残酷で、狂気に満ちていて、美しかった。    お鶴や青吹屋、彦丸に護久――戦えぬ者たちには、悪いことをした。彼ら彼女らは無事に避難できただろうかと考えて、即座に頭を振る。  そんなことを言える立場ではない。悪いと感じてもいないくせに、己に嘘をつく意味も感じなかった。    絶え間なく響く怒号と断末魔が心地よい。己の生きる場所はここであるのだと強く実感する。散りゆく命に同情し、悲惨な戦場に眉を顰めるのが人としてあるべき姿だとは分かっていても、幻乃は事ここに至っても、高揚以外の何も感じていなかった。   「そろそろ俺も出ようかな」    浮き立つ気持ちを抑えつつ、幻乃は刀を握り込む。  榊藩と旧幕府の連合部隊は、数の上では三条藩に勝ってはいるが、所詮は寄せ集めの軍勢だ。現に、統率の取れた動きで防衛し続ける三条側に、味方は押され始めていた。後から合流する援軍を迎え入れるため、この場所を押さえておくことが幻乃の役目ではあったけれど、このままではそれより前に味方が押し負けかねない。    冷たい風が吹き抜けていく。眩しい月明かりを、重々しい雪雲が遮った。暗闇が濃くなったと見るや、幻乃は動き出す。  左手にはクナイ、右手には抜き身の刀を握って、ひらりと幻乃は(やぐら)から飛び降りた。戦場に乱入した幻乃に気づいた者たちが声を上げようとするが、彼らが叫ぶより早く、幻乃は動き出す。   「お気をつけください、新手が――ごっ!」 「なにを、ぉぐっ!」  阿鼻叫喚が一気に広がっていく。その声に気がついたのか、近くで刀を振っていた冬馬が、幻乃に向かって声を張り上げた。 「おい、作戦はいいのか、狐!」 「押されすぎています。先に屋敷を制圧してしまいましょう。何、すぐに戻れば榊さまとて文句はありますまい」 「それもそうか。……行くぞ! こっちだ、狐に続こう!」  冬馬が味方を鼓舞する声を聞きながら、戦闘が激しい場所をあえて選んで飛び込んでいく。怒号の中を軽やかに走り抜けながら、幻乃は目につく者の命を手当たり次第に奪っていった。にわかに味方陣営が活気づく気配を背に感じつつ、久方ぶりの血の香りを堪能する。   「死神か⁉︎ なんだ、あいつは!」 「あの狐顔、あの強さ……。人斬りがいたろう。この辺りで消息を絶った、人斬りが! あれがその『人斬り狐』ではないか⁉︎」 「人斬り? だが、それは革命の立役者ではなかったか。あれは、榊藩の者だぞ……⁉︎」  気分良く刀を振るっていた最中、耳に届いたその言葉を拾って、ぴくりと幻乃は肩を揺らす。 「『人斬り狐』? 俺が?」  復唱するように呟いて、幻乃は弾けるように笑い出す。周りを囲んでいた男たちは、戦いの真っ最中に笑い出した幻乃を、気味悪がるように遠巻きに眺めていた。  笑いすぎて涙まで出てきた。手の甲で雑に涙を拭いながら、幻乃は呆れたとばかりに首を振る。 「なんだ。こんな場所まで死にに来たくせして、『人斬り狐』を見たこともないんですか」 「何……?」 「最強の人斬り。革命の影の立役者。あの人と斬り合って、生きて帰れたものがどれだけいることか」  そう言ってうっとりと空を仰ぐさまは、周囲の者には、まるで恋でもしているかのように映っただろう。もっとも、幻乃の頭にこびりついて離れないという一点においては、恋とそう変わりないのかもしれない。 「たしかに俺は冴えない狐顔だけど、違いますよ。あの人と間違われるなんて恐れ多い」  言いながら、目の前の男を切り捨てる。  弱い。呆れるくらい、弱い者ばかりだ。  怯んだように、もうひとりの男が後退りながら声を上げる。   「お前でなければ誰だと言うのだ! この気狂いの悪鬼が!」 「知らないのなら教えて差し上げましょう。『人斬り狐』はな――」  もったいぶった講釈の最中、遠くから悲鳴と断末魔が一際大きく響いてきた。
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