春死なむ

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 抑えきれない興奮に、幻乃の視界がきゅうと狭まる。  待ちに待ったこの瞬間を、逃してなるものか。このためだけに俊次を唆し、寝る間も惜しんで駆けずり回ってきたのだから。  しかし、意気揚々と斬りかかろうとした瞬間、「おい、幻乃!」と悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。 「聞いていないぞ、こんな……、このような化け物がいるなんて!」  視線を向ければ、青ざめた顔をした俊次が、大柄な体をみっともなく縮めながら、責めるように幻乃を指さしていた。時代に取り残されたこの男は、喚き散らすしか能がないらしい。怖いのなら初めから戦など起こすべきではなかったし、力を示したいと言うのなら、構えるべきは指ではなく刀である。  せっかくこんなにも素晴らしい夜だというのに、水を差された気分だった。 「おや、そうでしたか? それは失礼」 「し、失礼も何もあるか! 人斬り狐だと? い、維新の立役者の名くらい知っておるぞ! こんな化け物がここにいるなど、貴様はそんなこと、一言も言っていなかったではないか!」 「報告の必要を感じなかったもので。それに……仮にも藩主を名乗るなら、たったひとりがそうも恐ろしいなどと、情けないことをおっしゃらないでいただきたい」  もはや嘲笑を隠さず言い放てば、俊次は顔を真っ赤にしながら喚き散らした。   「貴様……謀ったな! 主君を危険に晒すとは何事だ!」 「何か誤解しておられるようだ。俺の主君は、昔も今も、()()()()()ただひとり。引き際も弁えぬ無能な弟君ではありません」 「な、な……! 幻乃、貴様ぁ!」  掴みかかろうとする俊次の腕をひらりと交わして、幻乃はため息をつく。 「戦は起きた。戦火もこの地に届いた。お会いしたかった方も引きずり出せた。もう、あなたに用はありません。今日までどうもお世話になりました。悪いことは言いませんから、永らえたければお屋敷の裏手へ進んでください。焼け落ちる前に、どうぞお早く。先行している者がおりますから、ここよりは安全でしょう」 「こ、こ、この、無礼者が!」     激昂した俊次が刀を振りかぶるより早く、幻乃の真横を黒い風が吹き抜けていく。即座に気付いて刺突を逸らすが、一歩遅かった。  悲鳴が上がる。 「大した忠義だ」  呟く声とともに、鮮血が散った。 「何をしに出て行ったかと思えば、亡き主人への義理立てとはな」 「がっ、……あ!」    抉られた肩を押さえて、俊次は信じられないものを見るように目を見開いた。慌てて俊次を背に庇う側近たちに、幻乃は行け、と目だけで指し示す。苦々しい顔をしつつも、目配せの意図を汲み取った側近たちは、引きずるように俊次を屋敷の方角へと連れて行く。  狐面越しにそれを見送って、人斬り狐は嘲るように笑う。 「気の毒に。無駄に苦しむだけだ。お前のせいで仕留め損ねた」 「まだ殺されては困ります。将の首が落ちれば終わってしまう」 「それも忠義か。榊俊一殿への」    濃厚な殺意を含んだ視線を向けられれば、もう我慢なんてできなかった。ぶるりと体を震わせて、幻乃は強く刀の柄を握り込む。
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