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「まさか。こんなもの、ただの私情です。俊一さまには、たしかにお世話になりましたけど、ね――!」
凍りついている周囲を横目に、幻乃は体を低く沈めて、一息に地を駆けた。体格で劣る以上、真っ向からの力比べでは勝ち目がない。速さと搦め手だけが、幻乃に残された勝ち筋だった。指の間に挟み込んだクナイを三本、人斬り狐に向かって投げつける。――と同時に、今の自分にできる最高の速度で、幻乃は刀を振るった。
きぃん、と耳が痛くなるような金属音が響く。受け止められた刀から、びりびりと手が痺れるほどの衝撃が伝わってきた。一合、二合と切り結ぶも、届かない。投げつけたクナイのうち、胴体を狙った二本は弾かれ、振り上げた刀は真正面から受け止められた。知ってはいたが、人斬り狐の見せたその技量に舌を巻く。
だが――。
「一本は、入りましたね」
ぴしりと音が響いて、狐の面が割れていく。ふたつに分かれた面の下から現れたのは、身震いするほど冷たい表情をした、玲瓏な顔つき。迫力ある隻眼が、ぎろりと幻乃に据えられる。
三条の藩主・直澄その人が立っていた。
「な……! あれは、三条の……?」
「お屋形さまが、人斬り? そんな馬鹿な!」
外野が呆然と呟く声は、幻乃の耳にはもはや届かない。目の前の男から目を逸らすこともできなければ、外に一切の意識を向ける余裕さえなかったからだ。他所に意識を移した瞬間、斬られて終わる。それが分かるから、目を逸らせない。
表情という表情を消し去った直澄は、頬についた傷口から流れる血を拭って、つまらなさそうに呟いた。
「……散歩は楽しかったか、幻乃」
「ええ、ええ。こんなにも月の美しい夜ですから、もちろん。生きるにも死ぬにも、良い日です」
ねえ、人喰い狐殿。
笑い交じりに呼びかける。
「せっかくお顔を隠していらっしゃったのに、見られてしまいましたね。申し訳ございません」
心にもないことを言えば、人形のような無表情のまま、直澄は「構わないさ」と答えた。
「どの道、生きて帰す気はない」
直澄は、誰を、とは言わなかった。敵陣たる旧幕府軍だけではなく、味方であるはずの者たちさえ、その言葉に息を呑む。普段と打って変わった冷たい声を出す直澄が、本当に己の味方なのか、誰も彼もが疑心に駆られていることだろう。
人斬り狐はひとりで動く。男も女も、老いも若きも、出会えば生きては帰れない。これまで素性の知れなかった彼の人斬りが名を上げたのは、その圧倒的な強さと、一切の慈悲を見せない冷酷さゆえだと、刀を振るう者なら誰もが知っている。
緊迫した空気の中で、幻乃はひとり上機嫌に笑った。
「さて、できるでしょうか? 人の口に門戸は立てられません。急げば、間に合うかもしれませんけどね。これでよそ見をやめて、俺だけを見てくださいますか?」
飢えた獣のように、幻乃はじっと直澄を見つめた。
燃え盛る屋敷を背にした直澄は、当主であるにも関わらず、歴史ある生家を惜しむ様子すら見られない。周りには死体の山が積み重なっているというのに、動揺も逡巡も、かけらたりとも滲んでいなかった。そんな威風堂々とした立ち姿は、波紋ひとつ立たぬ水面を見ているかのようだ。
そして今、そんな強者の視線は、幻乃ただひとりに据えられている。
これ以上の喜びがあるだろうか?
この姿が見たかった。主人を害され、生き恥を晒すことを強いられたあの日から、ずっと幻乃は『人斬り狐』たる直澄に会いたくてたまらなかった。
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