春死なむ

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『ひっ! うああ! 爺! 爺……?』    初めて連れて行かれた戦場は、地獄のようだった。数秒前まで生きていたはずの人間が、次々に恐ろしい断末魔を上げて倒れていく。早く父の役に立ちたいからと無理を押し通したことを、あの日ほど悔いた時はなかった。  従者の腹からこぼれ落ちる臓腑を見つめて、少年だった直澄は恐怖に戦慄(わなな)いていた。周囲の状況すらろくに見えておらず、指南役から教わった戦技もすっかりと忘れて、幼い直澄は呆けることしかできなかった。  身を挺して自分を庇ってくれた老従者を呆然と見つめて、忍具の刺さった己の片目を馬鹿みたいに押さえながら、迫り来る敵を見上げることしかできなかった。 『ああ、子どもがいたのか。殺し損ねた』  淡々と呟く声は、まだ若い。倒れていく従者の体の向こう側に、刀を振り上げる茶髪の少年の姿が見えた。幻乃との年の差なんてほんの数歳なのに、子どもだった当時は遥かに年上に見えたものだ。  こちらを見下すように笑っているのに、目だけがぎらついたその表情。戦いを楽しみ、生を謳歌していることが一目で分かる。怯え竦むだけの直澄と比べて、その少年の心の在りようの、なんと強く美しいことだろう。 『戦場で泣く馬鹿は初めて見た。可哀想にな。弱い奴は誰かのお荷物になって泣き喚くことしかできないんだから、気の毒だ』  直澄の左目に刺さったクナイに手を掛けて、少年は容赦なくそれを引き下ろす。目の前が真っ赤に染まるほどの激痛に、直澄は絶叫した。   『ほら、立て。その手の刀はお飾りか? 黙って死ぬのがお好みか?』  あからさまな嘲笑に、怒りで頭がどうにかなりそうだった。逃げることも向かうこともできぬまま、直澄はその場で馬鹿みたいに刀を振りまわす。   『う、ううぅ!』 『あは……、そうだ! 死に物狂いで来れば少しは愉しめる。おいで』    どれだけ刀を振っても、一太刀も届かなかった。軽々と受け流されては、戯れのように肌を刻まれる。彼我の間にどれだけの実力差があるのかさえも分からぬほど、その少年は強かった。  数回それを繰り返して飽きたのか、唐突に少年は酷薄に唇を歪めて吐き捨てる。 『もう、いいや』    小手を狙われ、刀が手から弾き飛ばされる。体勢を崩した直澄の目前には、目に負えぬほどの速さで凶刃が迫っていた。刃の向こう側で、少年が笑う。惜しむように目を細めて、楽しくてたまらないとばかりに、純粋に。  その表情は、ぞっとするほど美しかった。魅入られたように少年を見上げながら、迫りくる死を真っ向から見つめたあの時、きっとそれまで生きてきた三条直澄は死んだのだろう。 『――おおおぉ! 三条、討ち取ったり!』    しかし、少年の刀が直澄を真実殺す直前で、勝ち鬨を上げる声がびりびりと響き渡った。ぴくりと眉を顰めた少年は、手を止めると、周囲の状況を確かめるようにくるりと辺りを見渡す。身動きひとつできない直澄が状況を把握する前に、誰かが『狐!』と叫ぶ声が聞こえた。 『何してる。引き上げるぞ、狐』 『分かってますよ』  暴れ足りないのか、刀についた血を乱暴に振り落としたその『狐』は、納刀しながら、馬鹿にするように直澄を見下した。   『命拾いしたな、ちび。がたがた震えて、みっともないったらありゃしない』  言うだけ言って、くるりと背を向けた『狐』に、直澄は思わず声を掛ける。 『俺を殺さないのか……? どうして……?』 『……なんだ、初陣か? 覚えておくんだな。敗者にはな、理由を聞く権利なんてないんだよ!』  腹を蹴り上げられて、蹲る。降ってきた声は、嘲笑なんて言葉では収まらないくらい、人を馬鹿にしきった声音だった。 『戦場に出ておいて刀もろくに振れないお子さまなんて、殺す価値もない。生き恥を抱えて逃げ帰れ、臆病者』  今思えば、『狐』――幻乃は、本営から離れた場所にいた直澄のことを、三条家の長男だとは分かっていなかったのだろう。そうでなければ、いくらなんでもあそこまで傲岸不遜な口は叩くまい。幻乃は、およそ人間らしい良心を持ち合わせていない代わりに、立場や身分には妙にこだわるところのある男だから。  直澄は幻乃に()()()()()。  初陣で受けたその屈辱は、幼かった直澄の心に消えぬ傷を刻みつけた。艶やかな笑みで脳裏を焼いて、幻乃は直澄の左目と心に、生涯消えぬ傷を鮮やかに刻んでいったのだ。
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